ここは、深い深い海の底。
そこに、二人の人魚が平和に暮らしていた。ぽっちゃりした男の子がペッパー、小さくてやせっぽちの男の子がソルトである。
ここは、深い深い海の底。
そこに、二人の人魚が平和に暮らしていた。ぽっちゃりした男の子がペッパー、小さくてやせっぽちの男の子がソルトである。
海底のどこかにある洞窟に、魔女が存在するという。その魔女はわけあって洞窟でひとりぼっちで過ごしているらしかったが、ペッパーとソルトにとってそんなことはどうでもよくて、魔女の存在を知った二人は、さっそくその魔女がいるという洞窟にやってきた。



やあ。あなたは魔女だって聞いたんだけど、本当?


ペッパーが、洞窟の奥で何やら分厚い本を読んでいる少女に笑顔で尋ねた。



……


その少女は、闇のように黒く長い髪をあたりにふよふよと漂わせていた。
ペッパーが声をかけても聞こえていないのか、はたまた聞こえないふりをしているのか、こちらを見ようともしない。



ペッパーくん、そんな単刀直入に聞きます?


ソルトがペッパーの腕を引いて、耳元で小声で言った。



だってぇ……


本を閉じる音がしたので、二人は口を閉じて魔女の方に顔を戻した。



ええ、私は魔女だけど。何か用?


髪と同じように真っ黒な目をこちらに向けてきた。



あっ、そんなにあっさりと認めてくれるんですね





ただ本当にいるのかを確かめたかっただけだから、特に用はないよ





そう。じゃあ帰って


冷たく、まるで突き放すように言い放った魔女にペッパーは慌てる。



嘘です! 用ならあるよ!





何よ


ペッパーは、鬱陶しそうに睨みつけてくる魔女にびくびくしながら、視線を不自然に彼女からそらした。



えーっと……ソルトくん、用って?


ペッパーは小声でソルトにそう尋ねた。



え、知りませんよ


魔女がふーっと、肺の中の空気をすべて出し切りそうなほど、長く深いため息をついた。



用なんてないんでしょう? 早く帰って。私も暇じゃないのよ





あっ、今思いついた!


ぱあっ、と顔を明るくさせて、ペッパーは元気に右手をあげた。しかし、魔女に冷たい目でキッと睨まれて、申し訳なさそうな表情で静かに手を下ろした。



……今?


地を這うような低く重い声に、ペッパーとソルトの背中に悪寒が走った。



ごっ、ごめんなさい、聞かなかったことに!


魔女はあからさまに大きなため息をついた。そして、自分の顔の前で揺れていた髪の毛を、くるくると指に巻き付ける。



で、何なのよ





人間界について教えてください!





本でも読みなさいよ





や、あの、見せてほしいというか……


アホらしいことを頼んでしまったと、言ったあとに気がついたのか、ペッパーの声は次第に尻すぼみになって消えた。
すると、初めて魔女がわらった。ただし、それは笑顔というよりも、呆れのような嗤いであったが。



行けばいいじゃない


その言葉を聞き、ペッパーとソルトはしばらく呆然とただ魔女を見つめていた。



は?





は?


やっと二人の口から出た頓狂な声が重なる。



人間界よ





……





……が、どうしたんですか


何も言えないでいるペッパーの代わりに、ソルトが尋ねた。



だから、行けばいいって言ってるの





……それってつまりどういうことでしょうか?





物分かりの悪い子たちね。つまり、こういうことよ!


魔女がそう言った途端、ペッパーとソルトの周りに無数の気泡が現れた。
体の表面を優しく撫でるように上っていくそれがくすぐったくて笑っていたが、やがてその勢いが増し、息苦しくなってきた。
状況が分からず、不安と恐怖が募る。肺が圧迫され、心臓もズキズキと痛くなったところで、二人は気を失った。



……で、気がついたらこんなところにいたわけですが……どういうことでしょうか


目が覚めると、周りには見たこともないような魚が何十匹もいた。
さらに、自分たちもその魚の姿に変わっていたのだ。
ペッパーは丸い体型で、立派な長い尾びれが生えているオレンジの魚。ソルトは、体は小さいが美しく輝くウロコがある赤い魚。
魚の姿になっても、二人の体型は変わらないようだ。



人間って魚だったの? 聞いた話と違う!





二本の脚なんて生えてないし、上半身は僕たちにそっくりだと聞いていたのに……


自分たちについている、ひらひらした胸ビレや尾ビレに焦っていると、誰かに声をかけられた。



アンチャンたち、新入りか?


声がしたほうを見ると、そこに大きな魚がいた。



あっ、はっ、はじめまして! 人間さん!


ペッパーはうわずった声で言った。
ソルトも興奮しているからか、胸ビレをパタパタさせている。



何言ってんだアンチャン。俺はあんたらと同じ、金魚だよ


そう言った金魚の顔は、心底呆れているように見えた。



きんぎょ? 初めて聞きます。随分と神々しいお名前ですね


ソルトが冗談ではなく真面目に言うから、金魚は一瞬口ごもった。



だから、アンチャンたちはさっきから何を言ってるんだ。人間なら、ほら、俺たちの真上にいる


金魚に言われて、ペッパーとソルトは恐る恐る上を見上げる。
見上げてから初めて気がついたが、二人はどうやら四角い大きな箱の中にいたらしい。
箱の外には、もくもく雲を食べている人間や、小さな氷山に色のついた何かをかけて食べている人間などがいるのが見える。
そして、何人かの人間は、この箱の中を覗こうとこちらに身を乗り出していた。



にっ、人間って、こんなに大きいんだ!


ペッパーは感動のあまり溢れてきた涙を目に溜めながら、胸ビレで口元を押さえて感極まったような掠れ声を出した。



どうしたんだよアンチャン。初めて人間を見るわけでもないだろう、今まで人間に世話してもらってたんだから





本当に、僕らにそっくりです!


ソルトも、嬉しさからこぼれた涙を拭った。



どこを見てそんなことを言ってるんだアンチャン。似ても似つかないだろう。とにかく、アンチャンたちも早く逃げたほうがいいぞ





逃げる? どうしてですか?


突然そんなことを言われたため、ソルトは怪訝な顔をして金魚を見る。



不思議な円盤が近づいてきたら、とにかく逃げまわるんだ。捕まったらどこかに連れて行かれちまうからな





ど、どど、どこかって、どこ!?


ガタガタ震えながらペッパーは尋ねた。



さあな。俺も行ったことがないから分からない。運が良ければ円盤が破れるんだが……。ほら、さっそく来たぞ


もう一度見上げてみると確かに、棒が生えた白くて薄い円盤が近づいてきていた。
ソルトは金魚にもっと詳しいことを聞こうと思ったが、もう彼はどこかに行ってしまったのか、姿が見えない。



とりあえずペッパーくん、僕たちも逃げますよ


ソルトはそう声をかけるが、ペッパーは上を見つめたまま微動だにしない。ソルトはペッパーの体を揺すり、今度はもっと大きな声を出した。



何してるんですか! 早く逃げますよ!





…………美しい





は?


わけが分からず、ソルトはペッパーの視線の先を追う。そこには、一人の人間の少女がいた。



どの子にしようかしら~


可愛らしい顔に、全体的にぽっちゃりとしていて、見た目が完全にペッパーの好みの少女だったので、ソルトは彼が一目惚れしたのだと瞬時に悟った。



僕、あの子について行く!





えっ? ペッパーくん!


その後、運が良かったのか悪かったのか、ペッパーとソルトは二人仲良くその少女に捕まった。そして、小さくて狭い、柔らかいのに破れそうで破れない不思議な透明の入れ物に入れられたが、少女の家らしきところに着くとすぐに出してもらえた。
とは言え、サイズが大きくなっただけで、これまた不思議な透明の、丸くて硬い入れ物に入れられたのだが。
その際、ソルトは中央にあった謎のお城に体をぶつけてケガをしたが、すぐに治るだろうとそのまま放っておくことにした。



ここは、あの少女の部屋なのでしょうか。それにしても不思議ですね。ここにあるはずの壁が全く見えません……


ソルトが、透明の壁をペタペタと触りながら感心する。



どうしようソルトくん! あの子の部屋に来たなんて……まだ出逢って少ししか経ってないのに早すぎるよ! まだ心の準備だってできてないのに!





落ち着いてくださいペッパーくん。別に君たちはそんな関係では――





ペッパーちゃあん! ソルトちゃあん!


少女に突然名前を呼ばれて、ペッパーとソルトは体をビクッと震わせた。



ペッパー“ちゃん”?





それより、なぜ僕らの名前を?





僕らの言葉が分かるのかな?





人間は魚とは話せないはずですよ





もとは魚じゃないじゃん!


二人でうーん、とうなっていると、少女が円柱型の何かを取り出した。



ご飯の時間よ!


そういうと、少女はその円柱から何やらいい匂いのするものをふりかけてきた。



ご飯!


ペッパーは目を輝かせながら水面に近づこうとしたので、ソルトは慌てて彼を止めた。



ペッパーくん! 人間界のご飯が、僕らにとって安全かどうか分からないんですから、そうやって――





そんなの食べたら分かるって!


なんでもかんでも食べようとするな、と言おうとしたのに、ペッパーはソルトを押しのけて水面に行ってしまった。



それじゃあ遅いでしょう! 毒が入っていたらどうするんですか!





大丈夫だよソルトくん! 美味しいよ! 君も食べなよ!





……


口の周りに食べかすをつけながら、ペッパーはソルトにはじける笑顔を向けた。
呆れて何も言えなくなったソルトは、とりあえずペッパーが食べ残して下に落ちてきたものを食べ始めた。自分も水面に行くと、ペッパーの食べる勢いがすごすぎて一緒に食べられてしまいそうな気がしたのだ。
