夏休みで無人の、大学のボロい廊下は、朝から汗だくになるほど暑かった。
夏休みで無人の、大学のボロい廊下は、朝から汗だくになるほど暑かった。



この、奥?





ああ。


その廊下を、理の前になって歩く晶の振り向かない言葉に、こくんと頷く。



……。


落ち着いているようで、時折好奇心に負けてぴくりと動く晶の背に、理は無意識に微笑んだ。



変わってないなぁ、昔から。


母と共に理の授業参観に来たときも、いや前世で、ヴァルドにくっついて領主の館や城塞都市に赴いたときも、この小さな背中は、我関せずという気配を見せて、観察すべきものは全て見て取っていた。



何、にやにやしてんの? キモい。


不意の晶の声が、理の耳を鋭くひっぱたく。



いや、別に。


危ない危ない、また、前世の思い出に囚われていた。小さく首を振り、前世の記憶を追い払う。
再び、薄暗い廊下を歩く晶の揺れる背を見つめ、理は晶には悟られぬように、息を吐いた。
高大連携で晶も受けている、しかし最終日に貧血のために欠席となった、実験や分析の基礎講義の補講を受けるために、理は晶と共に、教授が待つ、普段は大学院生が使っているという、大学の奥まった場所にある実験室に向かっている。



……。


いや、晶と理、二人だけなら、理も、そして教授の助手を務めている、晶に一目惚れをしてしまった理の先輩、高村も、喜んだのだろう、が。



第3、院生実験室、って、ここ?


晶とは異なる高い声が、理の気分を落とす。



あまり綺麗じゃないわね。





仕方ないわよ。
お金のない大学だし。





うーむ……。


二人の友人――確か砂原香澄と日上恵美という名前だったはず――に微笑む晶の背に、理は心の中で肩を竦めた。



私が頼んだの。


大学の正門前で女子高生二人を見、言葉を失った理の耳に響いた、しれっとした晶の声を思い出す。



兄と二人で講義受けるのキツい、って。


まあ、確かに。一部分だけ、納得する。しかしそこまで兄が嫌いか。いつものことながらの晶の態度に、怒りすら覚えない。



……。


だが、高村先輩は。……晶だけが補講に来ると、期待している。補講の後で、晶に大学を案内するとも、聞いている。



こんにちは。





やあ。よく来たね。





……。


開いた扉の向こうに見えた、にこやかに鼻の下を伸ばす教授の後ろで実験器具を揃えていた高村先輩から、目を逸らす。



いらっしゃい。


一瞬だけ顔色を失ったように見えた高村先輩が、しかしすぐに普段通りの声で答えたことに、理は正直ほっとしていた。
最後の講義だけを欠席したためか、補講自体はほぼ、講義全体の復習だけで終わった。



後はレポートを書いて、来週までに提出すればいいから。





はい。
ありがとうございます。


華やかな女学生に囲まれているのが嬉しいのか、実験や分析の説明をしている間ずっと鼻の下を伸ばしっぱなしにしていた教授が、にこやかな表情のまま狭い実験室を出て行く。
そして。メモを取っていたノートから顔を上げると、晶はおもむろに、高村先輩に向かって微笑んだ。



あの、高村さん。





な、何?





実験器具、片付けるの手伝いますから、私たちに、大学、案内してもらえませんか?





えっ……。


思いがけない晶の言葉に、高村先輩がちらりと理の方を向く。



ちょっと待て。


自分は、晶に先輩の好意を伝えていない。
慌てて首を横に振るのが、理にはやっとだった。



あ、俺からもお願いします。


それでも何とか、フォローを入れる。



俺もついて行くんで。





えーっ!


明らかに嫌そうに揺れた晶の黒髪を、何とか睨む。



……一体、何を考えているんだ?





まあ、良いけど。





あ、ありがとう、ございます。





……。


首を傾げた理は、しかし、晶が友人の一人、砂原香澄の方に目配せしたのを見つけてはたと納得した。



……そういうことか。


