青年は歌うように言った。



紙を丁寧に千切る余裕があったなら、慌てていても線の上にぴったり点を打つくらいできるはず。
そのほうが暗号としても確かです。
これはわざとずらしているんです


青年は歌うように言った。



ソの下、ミの下、ラ、ミの上、
シの上、シ。





……確信はありませんでしたが、僕は五十音にこれを当てはめてみました。
もしこれが暗号であるなら、という仮定のもとで、ですが


ソの下は、タ。
ミの下は、ム。
ラ。
ミの上は、マ。
シの上は、サ。
シ。



そうしたら、たまたま人名らしき文字列、『タムラマサシ』になりました。
もしかしたら、と思っただけです





ちょっと意地悪なこと聞いていい?
例えばこの点、『ソの下』じゃなくて
『ファの上』とも考えられるよね?
『ファの上、レの上、ラ、ファの下、ドの下、シ』とかじゃダメなの?





それも考えました


青年は深く目を閉じた。



でも、『ファの上』や『ドの下』を指定しているというのは、考えにくかったので





……


夜暮は考えた。
レの上はラだ。ファの下は「フィ」あたりにするとして、ファの上は? ヒョ? ヒォ?
ドの下はナ゛?
ちょっと考えにくい。



ずれているものはどれも、ほぼ線に接するように打たれているのに、一つだけずらし方が別、というのは変です。
それでは暗号として安定していない。
五番目が『シの上』なのに、同じように……つまり線に接する点として書かれている四番目が『ファの下』を表す、というのは、理不尽ではないでしょうか





こういう場面で淡々と「理不尽」って単語使う人初めて見たなぁ





つまり、『ナ゛』があり得ないと分かったのなら『フィ』や『ル』も無いと言えます。間違えにくいようにわざわざ小さい点にしたのでしょうし。タルラフィサシ、とかではないと思ったのはそういうわけです。
……これがそういう暗号なら、ですが





一つ付け加えるなら、「ラ」が本当にラを示しているのか、それともラの上下のヨ・リを示しているのか怪しいところはあります。
あくまでも、人名が出てきたから口にしてみただけ。他にも可能性はあります


とっさにそこまで考えるものなのだろうか。
夜暮が青年の顔を見やると、ひどく眉をしかめていた。心なしか顔が青い。



え、大丈……


青年は夜暮の言葉を聞かずに席を立った。
カップの中には紅茶をなみなみと残したままだ。



ごめんなさい、さようなら





あの人にも、すみません


そのまま青年は店を出ていった。



?


ざわ、と少し店内がざわめいた。
夜暮が目をやると、かなり大柄の女が店内を歩いてくるのが見えた。二メートル近い。
それだけではない。彫りの深い彫刻のような美女だった。
女は迷いなくテーブルの間を突っ切り、夜暮のテーブルの前にやって来る。



どうした?


夜暮はため息をついた。



どうした、じゃないですよ。
遅いですよ、五日町さん


何をしてきたのか、五日町は左腕をまくり上げ、手首から二の腕の半分くらいまで包帯を巻いていた。
注目を集めもするだろう。
だが、いつもの顔だ。きっちりと巻き込まれた事件は解決してきたらしい。



エスプレッソ・ドッピオ。ミルクと砂糖は要らない


席につくと五日町は最初から決まっていたかのように口早に言う。
男のような話し方をする理由は誰も知らない。



大人ですね





それはともかく、ここらへんにフードを被った男がいなかったか?
待ち合わせて、もう来てるはずなんだが





え


夜暮は口を開けて五日町を見た。



ん、そこの紅茶……相席していたのか。話したのか?





少し……さっきまで。顔色悪くして出ていきましたけど





あー、ストレスが多かったか。
あいつは敏感なやつで……初対面の人と至近距離で話したりなんかすると気分が悪くなるんだよ





夜暮、お前なにかしてないだろうな?





腕掴みました


五日町は少し呆れたように左腕をテーブルに投げ出した。



……五日町さん、僕のことその人に話しました?





いや? もう一人くるとしか言ってないな。
事件の詳細もまだ話していなかったくらいだ





僕が五日町さんの部下だって、五日町さんの連れだって気づいてました





? ああ、そうか


夜暮は、青年が立ち去り際に言った台詞を思い出す。



あの人にも、すみません


あれは五日町への伝言だったのだ。



あのちょっとの間に、そんないかにも警察なんてそぶりを見せたつもりなかったんですけど





お前、あいつには手を出すなよ?





……あの人、何者なんですか?





うちの頭脳だよ。頭蓋骨がやや脆いがな





?





軟弱という意味だ


‡1 僕は逃げたい 了
