プロフェッサーQは、たしなめるような目でアレックスを見た。
アレックスは、胸もとでコブシをにぎりしめた。
やがて、ぼそりとつぶやいた。



ジェニファー・ボンド。彼女はMI6の適正テストに合格した





かっ、彼女が!?





ああ





彼女には無理です!





適正テストの結果は素晴らしかったよ。キミ以上の諜報員になる可能性を秘めている





彼女は優しすぎます! それに純粋だし感情的です。スパイに向いていません





そうかな?


プロフェッサーQは、たしなめるような目でアレックスを見た。
アレックスは、胸もとでコブシをにぎりしめた。
やがて、ぼそりとつぶやいた。



こんな危険な仕事……彼女にさせたくありません……





しかし試験の結果は、上層部に報告しなければならない





………………





結果を見れば、彼女の適正値の高さに上層部も必ず気付く。我々には、どうすることもできないよ





本当に、何もできないのでしょうか





どういう意味だね?





『上層部に報告しなければならない』ということは、まだ報告していないのですよね?





その通りだ。ただ、上層部には全校生徒の名簿がある。隠ぺいなどできないよ





もちろんです。しかし





しかし?





……少し考えさせてください





分かった。試験結果は、明日の午後に送ろう





ありがとうございます


アレックスは、深く頭を下げて退出した。
その背中をしばらく見守っていたプロフェッサーQは、やがてつぶやいた。



我が国は伝統的に、アンフェアで非情な外交手腕を用いている。われわれMI6は、その中でも、もっともダーティーな組織だ。国是の根幹でもある


それからこう言った。



気付くんだ、アレックス。MI6はアンフェアを歓迎する


その夜。オクスフォード大学・学生寮
アレックスとジェニファーの部屋にて。



ああん、アレックスおかえりー





ただいま





あれ? もしかしてご飯買ってきた?





うん。でもこの匂いは……





私も作っちゃった





この匂いはもしかして、私の好きなウナギゼリー?





そう! よく分かったね





あんな匂いを放つのは、ウナギゼリーぐらいだからね





ふふっ





ちなみにこれは、キミの大好物のニシン・パイだ





嬉しい! でもどうしたの?





なにがだい?





アレックスがご飯を買ってくるなんて……優しすぎない?





そう?





なにか下心があるのかな?





そっ、そんなことないよっ





ふふっ、かわいい。隠しごとをしてもすぐ分かる





……実は





実は?





実は今晩、試してみたいプレイがあるんだ





試してみたい?





なんでも恐ろしい絶頂感で、しかもそれがいつまでも続くらしいんだ。ただ、ちょっと、その、なんというか……





いいよ。アレックスが望むなら、私なんでも我慢する





………………





それとも、やってほしいの?





あぁ、ジェニファー





あぁん、アレックスぅ!


翌朝――。
アレックスは、ぐったりとしたジェニファーを残して、密かに部屋を出た。
プロフェッサーQに電話を入れた。



朝早くにすみません





ああ、かまわないよ





さっそくですがお願いがあります





……それは、オクスフォード大学の数学教授のボクに? それとも、MI6の研究開発Q課のボクに?





まず、数学教授にお願いなのですが





欲張りだな。で?





ジェニファー・ボンドは、先日のテストで不正をしていました。サーバーから問題と解答のデータを盗んでいたのです





ほう。キミはルームメイトを密告するんだね?





ジェニファーの試験結果を破棄して、彼女を退学させてください





……なるほど。そういうことなら、MI6の適正テストも無効になるだろう





はい





では、研究開発Q課のボクへのお願いは何かね?





ジェニファー・ボンドがデータを盗んだ証拠を、ねつ造してください


ぬけぬけと、アレックスは言い切った。
プロフェッサーQは、満ち足りた笑みをこぼした。
それから彼は諜報員の顔に戻ると、無表情で無感情に言った。



次からは、自分でねつ造するんだよ


そして二時間後。
ジェニファーとアレックスの部屋に、無数の警備員が乗りこんだ。
ジェニファーは、たちまち後ろ手に縛られて、みじめな姿でキャンバスを引きずられ、校門から放り出された。そこからは警官隊に手錠をかけられ、衆人環視のもと警察署まで連行された。
放校されたのである。



違う! 私はやってない!! 私は答案なんか盗んでない!!!!





黙れ!





アレックス! なぜなの!? アレックス!!





………………





なんとか言ってよアレックス! どうしてこんなウソを!?





………………





アレックス!





……ジェニファー


と、それは低い声であったが、まるで泣いてでもいるようにふるえていた。
ジェニファーは、血液に電流を通じられたかのごとく凝然と立ちすくんだ。



しあわせな人生を


と、しばらくしてから、まさしく涙声で、アレックスは低くつぶやいた。
ロシア鉄道。
パリからモスクワまでの直通運行路線。
そのポーランドを走っている車輛での出来事であった――。



プルルルルル!





……はい





ゼニア・ザラゲブナ、貴様の女だな?





ああ、キミは誰だ?





ぐああッ!?


女は突然、狙撃された。
足をおさえながら懸命にケータイに這いより、それを引っつかんだ。
そして耳にあてた瞬間、
女は頭蓋を撃たれて即死した。
やがてケータイから低い、よく響く女の声がした。



ニシン・パイだ
私はダブルオー・シックス『ニシン・パイ』


ダブルオー・シックスは裏切りのナンバー
【 END 】
