


いたいっ!!





だらしのない口だね。
どうして声をあげるんだい?





っう!! 申し訳ありません……!


主様に杖でぶたれて、私は床に倒れ込んだ。
それでも文句も言わず、謝ることしか許されない。



あっ!!


お姉さまが私の髪の毛を鷲掴みにして、無理やり顔を主様のほうに向ける。



ほら、ちゃんと主様の顔を見て謝りなさいな。





申し訳ありません。


額を地面につけて謝らされたり、こうやって犬のような体勢で謝らされたり……。
もう随分と長いこと、私は謝り続けている気がする。
だんだんとどうして謝っているのか分からなくなってくる。
たしか、主様の昼食のお肉が冷たくて……それで怒られているんだ。
私は食事に関しては、運ぶだけ。
作っているのはお姉さまたち。言われた時にはすぐに運んでいる。
調理場から、前菜を食べる主様の元へ持ってくる間に冷めてしまった――
そんなはずはない。今は夏だし、たいした距離でもない。
そうだ――
今日はそれを口に出してしまったんだ。
今まで一度も口答えをしたことはなかった。
けれど、今日は逆らってしまった。
それでこんなにぶたれて、謝罪させられて……。



可愛がってやってきたっていうのに……。年頃の娘になると、反抗的になるものなのかいッ!?


頭上から主様の怒声が降ってくる。



申し訳……ありません……。


すると急に主様の声が変わった。



ねえ、リビュレス……。


背筋のぞくっとする気味の悪い猫なで声。



は……はい……。





どうして急に反抗的な態度を示すようになったのかねぇ?


どうして? それは自分でも分からない。
ただ、私の中でなにかが変わった気がする。
それが原因なのだろうか……。
どうして逆らったりしてしまったのだろう。



このようなことは、二度とないようにしますので……。どうか、お許しください。





……いや。分からないねぇ。二度目があるかもしれない。


懇願する私の顔を見てニタッと醜い笑みを浮かべる。



リビュレス。お前には調教が必要なようだ。





……ぇ。


私は間抜けな声をあげていた。



久しぶりに、お仕置き部屋に連れて行ってあげよう……。





そ……それは……。


自分の声が震えているのが分かった。
数年前に一度だけ連れていかれたことがある。思い出したくもない、忌まわしい記憶。



ど、どうか……! どうかそれだけは! お許しくださいっ。





ほら、お前たち……。


主様の合図に呼応して、お姉さまたちが私を抱き起こした。



あ……。あぁ……。いや……ぁ。


両脇を固められ、無理やり立たされ、そして歩かされる。



お、お願いします……! あの部屋だけはっ!





うるさい子だね。黙って歩きなさいな。





いやっ! いやぁ!


一歩一歩、絶望の部屋へと近づいていく……。



いやあああああッ!


館内に奇怪な叫び声がこだました――
それが自分の発しているものだとは、私は気付かなかった。
夜の帳がおり、辺りがすっかり暗くなった頃、私は館を出た。
いつも通り、パンとスープとロウソクを持って納屋へと向かう。
納屋に入り、すぐに据え置きのロウソクに火を移す。
ぼうっと室内が明るくなり、声が聞こえた。



オカエリナサイ。





……。





リビュ? ドウシタンダイ?





あ……。いえ。ただいまもどりました。





……。


ベッドに座り、パンをちぎってスープにつけて食べる。



ナニカアッタノカイ?





いいえ。いつもと変わりありません。





ダッタラ、イインダガ……。





……。


食事を終えたところで、私はポケットの中に主様からいただいた物があることを思い出した。
それは、手の平に収まるくらいの小さな布袋。
結わえてある紐をほどいてその口を開くと、中には干し葡萄がたくさん入っていた。
一粒つまんで、舌にのせる――



……ん。


甘くて、ほのかに酸味があって美味しい……。



……。


もう一粒つまもうとしたところで――



リビュ!? ドウシタンダ!?


慌てたようにポリーがそばへやってきた。



どうも……していません。





ドウモシテナイナラ、涙ハ流レナイヨ。


ポリーの冷たい指が私の頬をそっと撫でた。



……ぁ。


ポリーの言う通り、私は泣いていた。



ち、違うの……。これは、あまりに美味しくて……。


私の前にしゃがみ込み、優しく頭に手をのせてくれる。



本当に……いつもと大して変わりはありませんでした……。ただ……。





タダ?





こうやって主様からなにかをいただくと……。食べてしまう……。美味しいと感じてしまう……。そんな自分が嫌で……。





主様ニ、モラッタモノヲ食べて、美味シイト感ジルコトノ、ナニがイケナインダ?





だって……。だって!


語気が強くなってしまって、慌てて顔を伏せた。



ごめんなさい……。


あんな仕打ちを受けて、その後にもらった物なんて、捨ててしまってもいいはずだ。
けれど、私にはそれができない。
あまつさえ主様に感謝しそうになっている自分がいた。
私はそれをそのまま彼に話した。



ソウイウコトカ……。





ぜんぶ終わった後、主様はすごく優しい顔で、新しい制服とこの干し葡萄をくださったんです……。
私は……私はこんなもの欲しくないのに……。こんなものをくれなくていいから、もっと優しくしてもらいたい……。


涙で視界がぼやけて、目の前のポリーの顔すらまともに見えなくなってしまう。
それでも私はしゃべるのをやめなかった。



本当に恐ろしい時間だったんです……。主様が悪魔に見えました。それなのに、さっきは優しくしてくださって……。
よく分からなくて……。もう頭の中がぐちゃぐちゃで……。恐ろしくて。
いつもなら……あなたのことを考えていれば、どんな仕打ちを受けても耐えられた……。
でも、今日はもう頭の中が真っ黒になって。どす黒いもので満たされて……。あなたのことも全く思い出せなくて……。
私はひとり、孤独なんだって……。主様に尽くす奴隷として一生を過ごして……朽ち果てていくんだって……。
そう……納得して……帰ってきたら……。


あなたがいた――
そう言おうとした時――
不意に視界が真っ暗になった。



ぁ……。


ポリーが身体に巻いている布――そのザラザラとした感触。
それによって、ようやく私は彼に抱きしめられたのだと気付いた。
私をいたわるように包み込んでくれるポリー。
人形の彼に体温なんてあるはずがないのに、ぬくもりを感じた。



リビュ……。モウナニモ喋ラナクテ、イイカラ……。疲レテイルダロウ?
今ハナニモ考エズニ、目ヲ閉ジテ……。
コノママ眠ッテシマウトイイ……。


傷だらけでボロボロだった私の心――
その傷口に彼の言葉のひとつひとつが入り込んで、冷え切っていた心をあたためてくれる。
そして、傷を塞ごうと優しく包み込んでくれる。



……ポリー。ありがとう。





コンナコトシカシテヤレズ、スマナイ。


ポリーは抱きしめる腕に少し力を込めた。



ううん……。こうしてもらえるだけで、なんだか救われる思いです……。


嘘ではなかった――
混乱するほどに頭の中がぐちゃぐちゃだったのに、今はすっかり落ち着いて、徐々に穏やかな気持ちになりつつある。
私にとって、それはすごく不思議な体験だった。



それと、私はあなたに謝らないといけないことがあります。





ナンダイ?





私はこの館の使用人ではないのです……。格好は使用人のそれですが……。
本当は……ただの奴隷です。
隠していて、ごめんなさい……。でも奴隷だなんて恥ずかしくて……。


すると、ポリーは身体を離し、私の顔を真っ直ぐに見つめて言った。



ソンナコト、ボクにトッテハ些細ナコトダ。キミがキミデアルコトニ、変ワリハナイ。





……。





ダケド、話シテクレテアリガトウ。


言ったところでポリーが私を軽蔑したりはしない。そう分かっていたけれど、それでもこうやって言ってもらえるのは嬉しかった。



ポリー……。
あなたはどうしてそんなに優しくしてくださるのですか?


主様がお仕置きの後にくださる“優しさ”とは全く違う。
私が嬉しくなる、私の心をあたためてくれる――そんな優しさ。



わたしなんかにはもったいない……。だけど、わたしは手放したくない……。あなたといると、私は……どんどん贅沢になってしまいます……。


近ごろ感じていた私の変化。それはまさにこのことだった。
以前にも増して、自由になりたいという願望が強くなり、
ポリーと一緒にどこかに行きたいと切に願うようになった。



ボクハ……。


なにか言おうとするポリーの顔を見上げる。
けれど、彼はその先を言わず、ふたたび私を抱き寄せた。
そして、私の頭をやわらかな手つきでぽんぽんと撫でてくれる。
私はその心地よさに身を任せ、やがて眠りについた……。
薄れゆく意識の中――



ボクハ……キミヲ幸セニシタイ……。


そんな言葉を聞いた気がした。
夏には似つかわしくない冷たい雨の降る日のことだった――
私はいつものように主様に呼びつけられ、謝っていた。
いつもとまったく同じで、地面に這いつくばって主様を見上げる。
けれど、いつもとまったく違う点がひとつだけあった……。
それは、その場にポリーがいるということ。



この人形はなんだと聞いておるのだ!





申し訳ありません。しかし、まったく身に覚えがないのです。





嘘をつくのもいい加減にしなさいな。お前の住んでいる納屋にあったのだ。


主様の視線の先には、お姉さまたちによって運ばれてきたポリーがいる。
ポリーは一切身動きせず、置物のようにじっとしていた。
もう何年もの間、私以外は誰も納屋に入らなかったのに、今日は探し物をしていたお姉さまが納屋に入ってしまった。
ポリーは縮こまるように両膝を抱えている。
おそらく扉が開く音がして、見つからないように身体を丸めたのだろう。
その姿が怯える小動物のようで、可哀想になってくる。



リビュレス。聞いているのか?





は、はい……。もともと納屋にあったものではないでしょうか……。


そういうことになれば、きっと主様はポリーを納屋に戻してくれる。
もしも私が持ってきたものだという結論を出されたら、確実に壊されてしまう。



こんなものを私は見たことはない。





亡くなられた旦那様が――





お黙りッ! あやつに会ったことすらないお前が口にするでない。





……申し訳ありません。





こんな不吉なデザインの人形……。どうしてこんなものを拾ってきたんだい?





い、いえ……。私では……。
あ……主様は、お姉さまたちが四人がかりで運んだものを、私ひとりで運べるとお思いなのですか?





運ぶ方法はいくらでもあるだろうよ。それに、たくさんの鉄クズを集めて、納屋でお前が作ったのかもしれないだろう?





……。





なんだい。作ったのかい?





ち、違います! もともと納屋に――





リビュレス……。


主様の底冷えするような声に私の言葉は遮られた。



この館では、なにがあっても全てお前が悪い――
そういう決まりだと、ずっと昔から教え聞かせてきたねぇ?





……はい。





仮に、この人形がもともと納屋にあったとしよう。しかし、それとは無関係にお前が悪い。お前は罰を受ける。
しかもお前は反論したねぇ? 調教して十日とたたないというのに。





申し訳ありません……。





今はもう謝罪なんてしなくていいわ。ねえ? お前たち。


言い終わるや否や、お姉さまたちが私を取り押さえた。



……ぇ?


そんな私を見て、主様は不敵な笑みを浮かべる。



お仕置き部屋へ連れて行けば、お前は聞き飽きるほどに謝るんだから……。


主様が広間の出口を指差す。
それに応じて、お姉さまたちが私を引っ張るようにして歩かせはじめた。



ま……待ってください! その……その人形はどうなるのですか! どうするおつもりなのです!?





おや?


主様の声に、お姉さまたちが立ち止まる。



リビュレス。お前は自分のことよりも、この人形のことのほうが気になるのかい?


その声はいつもより弾んでいて、どこか嬉しそうだった。
私は失態を犯したことに気付いた。



こっちに連れておいで。


その指示通りにお姉さまたちが私をポリーの前に立たせる。



さて――


主様はお姉さまたちに続けて指示を出す。
広間に鉄斧が二本飾ってあり、それを二人にそれぞれ一本ずつ持たせる。
とても重そうだったけれど、お姉さまたちにも振りかぶることはできそうだった。
残りのお姉さまたちは、私をしっかりと捕まえたまま微動だにしない。
私はこれからなにが行われるのかと思うと、気が気でなかった。



準備は整ったようね……。


主様は椅子に腰かけ、地面に座ったままのポリーを見下ろした。



リビュレス。この人形はお前が大切にしているものなんだろう?





え……。





これをお前の目の前で壊してしまうのは、さぞかし愉快だろうねぇ。





や……。おやめください……。どうか……それだけは……。


懇願する私を見た主様はいやらしい笑みを浮かべた。



やめるはずがないだろう? こんな楽しそうなことを……。





お願いします! どうかおやめください! やめて……。





もう遅いわ……。さぁ、やっておしまい。





やめてえええッ!


叫ぶと同時、私を掴んでいたお姉さまたちの手を振りほどいて駆け出し――
私はポリーに覆いかぶさった。
彼の頭を胸元に抱きしめ、全身で彼を守る。
ポリーを壊すなんて、そんなことは絶対にさせない。
私がどうなろうと構わない――
敵意むき出しの眼差しで主様を睨み付けた。
すると、主様の深いため息が聞こえてきた。



……リビュレス。お前には失望したよ。





私はここを一歩も動きません。


すぐさまお姉さまたちが私をポリーから引っぺがそうと手を伸ばしてきた。
だが――



いや、そのままでいい。この子はここで終わりだよ……。


主様のひと言でお姉さまたちは後ろへ下がる。
代わりに斧を持ったお姉さまたちが前へ出た。
床を引きずられた斧の先端がギラリと鈍く輝く。



たとえ……その刃に貫かれようとも、私は……退きません……。


声が震えてしまわないように気をつけたが、無駄だった。
半泣きになりながら私は続ける。



絶対に……絶対に壊させない……。





馬鹿だね……。お前のその小さな身体で斧を防げるわけがないだろうに。





それでも……。それでも、私は絶対に守ります。


真っ直ぐに、まばたきもせず、主様の目を見据える。



気に食わない目だ。


そうつぶやくと主様は私から視線を外し、手をかざしてお姉さまたちに合図した。



もうお前はいらない。こんな人形が、私への忠誠よりも大切だとは……。


お姉さまたちがゆっくりと床から斧を持ち上げる。
その手が震えているのは、人を殺すかもしれないことへの恐怖の現れなのか、それとも単純に斧が重いのか……。



さようなら……。生まれ変わるなら、もう少し身の程をわきまえた奴隷に生まれてきなさい。


お姉さまたちが斧を振りかぶるのを、私は信じられない思いで見つめていた。
殺されないだろうと高をくくっていたわけではない。
彼女たちなら無慈悲に殺してしまう。それは分かっていた。
だけど、そのことに対して現実味がなかった。
こんなにも簡単に人は人を殺してしまうのか。
人? そうか……。私は人ではなくて奴隷だったんだ……。
振り下ろされようとする斧。その先端の鋭さに恐怖し、私は身を固くした。
ぎゅっと目を閉じる――



――ッ!


すさまじい風圧と共に、
耳が痛くなるほどの風切り音――
直後になにかが壊れる音がした。
そして静寂が訪れる――



い……生きてる……。


私の身体は千切れていなかった。
それどころか、私はその広間を天井から俯瞰していた。
私がさっきまでいた場所からは土煙が上がっており――
そのすぐ脇には、斧を地面に刺したまま動かないお姉さまたち。
主様は子供のように目を輝かせ、身を乗り出すようにしてそこに見入っていた。
しかし、その表情はすぐに曇った。
当然だ――私の死体もポリーの残骸もそこにないのだから。



怪我ハナイカ?


すぐ横からポリーの声。
ポリーは天井の装飾品の凹凸を片手で器用に掴んで天井からぶら下がり、もう一方の腕で私を抱きかかえていた。



スマナカッタ……。
ソシテ、アリガトウ。
ボクヲ守ッテクレテ。





……ぁ。


その顔を見ると私は安堵のあまり泣きそうになった。



本当に斧ヲ振リ下ろシテシマウトハ……。


ポリーにこんな身体能力があったとは知らなかった。なにもできないと思っていた。
どのようなことが起こったのか――
私が目を閉じた直後のこと。私はポリーが動き出したのを感じた。
ポリーの腕が私の背中に回され、彼が私を背負うような形になった。
そこから先は一瞬の出来事だった。
ポリーは振り下ろされる斧をひらりとかわし、その場から垂直に跳躍し――
それとほぼ同時に二本の斧は床を砕き、辺りには土煙が上がった。
お姉さまたちは、なにが起きたのかすぐに気付いたのだろう。目を剥いてこちらを見上げている。
一方の主様は、全くもって私たちの姿を追えていないようだった。



あ……主様……。


お姉さまたちが天井を指差す。
そうしてようやっと主様もこちらを見上げた。



……な……はぁ……。


生気の抜けたような声を発したかと思うと、主様は椅子からずり落ちて、地面にへたり込んでしまった。
お姉さまたちがそんな主様に駆け寄る。
その様子を見下ろしながらポリーが言う。



キミが復讐ヲ望ムナラ、ソノ通リニスルガ……。





復讐?


そんなものは望んでいないし、考えたこともなかった。



復讐というのは憎い相手にするものだと、本で読みました……。
主様は私をここまで育ててくださいました。
感謝……は分からないけれど……憎悪は一切ありません。





ソウカ。リビュがソウ言ウナラ……。


ポリーは天井から手を離し、私を両手でかかえ直す。
ふわっとした浮遊感に包まれたかと思うと、たいした衝撃もなく床へと着地した。
そしてそのままポリーの元からも降ろしてもらう。
私は椅子に座り直した主様に声をかけた。



主様……。私はここを去ろうと思います。


こんなことになって、このままこの館にいられるわけはない。



ですが、私は主様にお仕えする奴隷です。


許可をくださいますか――そう言おうとしたところで、主様が口を開いた。



うるさい……。お前なんか知らない。消えておしまい……。


まるで私を呪い殺そうとするような低い声。
それを聞いて、私は床にそっと使用人用のカチューシャを置いた。



……主様。お世話になりました。


深くお辞儀をした後、私はポリーと広間を後にした。
扉が閉まる直前、主様の声が微かに聞こえた――
不吉な人形を作る魔女め……。
ポリーに背負われて、そこに到着したのは翌日の朝陽がすっかり登りきった頃だった。
昨日、館を出てすぐにポリーは私を背中に担ぎ、森の中を早足で歩きはじめた。
彼は動力源である水さえ補給すれば、ずっと歩き続けることができるらしかった。
私は初めて見る外の世界に心が躍り、しばらくは起きていたのだけれど、
気を張っていた疲れもあってか、いつの間にか眠ってしまっていた。



目ガ覚メタカイ?





ここは……。


だんだんと辺りの明るさに目が慣れていく――



ぁ……わぁ……。


思わず感嘆の声を上げていた。
だって、目の前には緑が豊かな草原と飛び交う鳥たち。そして、陽光にきらめく美しい泉が広がっていたから。
それはまさにポリーが話していたあの泉そのものだった。



アノ館ヲ出タラ、真っ先にココヲ見セテアゲタイト思ッタンダ。





……ポリー……。ありがとう。


ポリーの背中から降りて、私は泉の岸辺へと駆け出した。
後ろから彼もゆっくりとついてくる。
岸辺は、水面のぎりぎりまで地面がしっかりとしており、そこにしゃがみ込んで中を覗き込んでも大丈夫そうだった。



ポリー! お魚さんが泳いでます……!


底まで見渡せる透き通った水。その中を小さな魚の群れが優雅にゆらゆらと泳いでいた。



ボクノ言ッタ通リノ、泳ぎ方ダロウ?


以前にポリーが説明してくれた魚の泳ぎ方を思い出してみるが――



ふふっ……。全く違います。


ポリーは頭上に両手を掲げて身体をくねらせるようにしていたけれど、
実際の魚は身体をくねらせたりせず、真っ直ぐピンとしていて、ただゆったりと気持ちよさそうに水の流れに身を任せているようだった。



コレヲ見テゴラン。


ポリーの指差す先には見たことのない青い小さな花が咲いていた。



可愛らしいお花です……。





コレハ、コノ辺リニシカ生息シナイ花ラシインダ。


香りが気になり、鼻を近づけてみる。



はぁ……。ほのかに甘い……いい香りです。


その時――
バシャバシャッ! と水の跳ねる音がした。
慌ててそちらに視線を移す――
大きな白い鳥が泉の水面に降り立ったところだった。



綺麗……。


首が長く純白の羽毛に身を包んだ気品のある佇まい。
その姿に見惚れてしまう。



あの鳥は水を飲みにここにやってきたんですか?





イヤ、キット魚ヲ、トリニキタンダ。自分デ食ベルノカ、巣に持チ帰ッテ、子供タチに与エルノカ……。





……。





ドウシタンダイ? 黙ッテシマッテ。魚ガ食ベラレテシマウノハ、嫌かい?





いえ、生きるためには必要なことですもの。ちょっと可哀想な気もしてしまいますが……。
そういえば、お魚さん……。


私は食べたことがない。館で調理される魚は全て主様のもの。
それを考えると、思い出したかのようにお腹が空いてきてしまった。
可哀想だと言ったくせに、魚を食べてみたいと思ってしまう。



オナカがスイタ?





え? あ……。その……。


すると、間抜けなことに私のお腹が鳴ってしまった。
もしかしたらさっきから鳴っていたのかもしれない。



昨日カラ、ナニモ食ベテイナイカラ、シカタガナイ、ヨ。





い、いえ……。それよりもポリーは本当に疲れていないんですか? 私を背負ったまま夜通し歩き続けたんでしょう?





話シタ通り、動力が尽キナケレバ、ボクハ動キ続ケラレル。ソレニ――
ココナラ水が飲ミ放題ダ。


そう言ってこちらを向いたポリーが、なんだか可笑しくて吹き出してしまった。



もう……。飲み干さないでくださいね。


笑いながら、私は自分が本当に解放されたんだと、あらためて実感していた。
自由であるというのは、こんなに心がウキウキと踊るものなのか。



遠クノ、アノ木の小屋ガ見エルカイ?


ポリーの指し示す方を見ると、少し離れたところに小さな三角屋根の建物が見えた。
草原と森の境目辺りにひっそりと建っている。
この辺りは人の住んでいる様子が全くなかったので、一軒だけとはいえ小屋があるのは意外だった。



あれは……?





今ハ誰モ住ンデイナイ空キ家ダ。住マナクナッテカラ、ケッコウ経ツト思ウガ、問題ナク使エルト思ウ。


ポリーがどうしていきなりそんなことを言い出したのか、私には全く分からなかった。



リビュ……。





はい?


名前を呼ばれてポリーのほうを向くと、彼もまたこちらに顔を向けた。



ココ、で一緒に暮ラソウ。





ぇ……。


驚きのあまり、私は言葉を失った。
頭の中でポリーの言ったことの意味を考え、想像し、また考える。
やがて、答えにたどり着いた時――



……はいっ。


私は自然と笑みをこぼしていた。
こんな素敵な場所でポリーと一緒に暮らせるのなら、それはこの上なく贅沢なことだ。
想像さえしなかった幸せなことが、現実に、私の身に起ころうとしている。



一緒に暮らす……。


喜びに震える私を見て、ポリーが笑った気がした。



ヨシ、小屋マデ歩コウカ。


そう言って歩きはじめる彼の足取りは弾むように軽やかだった。
すぐに私も彼の横について歩き出した。
ポリーの言った通り、小屋には鍋やシーツなど家財道具がある程度そろっていて、たいした不便もなく住めそうだった。
それどころか陶器のコップだけでなくガラスのコップ、お皿などの食器が一式揃っていた。それなりに財のある人が住んでいたのかもしれない。
そういえば、ポリーはどうして最初からこの小屋に身を隠さなかったのだろうか。
その理由を聞いてみると、どうやらポリーは私に泉のことを話した際に、この小屋の存在を思い出したそうだ。
小屋の掃除を簡単に済ませた後、私たちは食事の支度をはじめた。
食材はポリーが獲ってきてくれた魚と木の実。
私が掃除をしている間に、泉だけでなく森も歩き回ってくれたらしい。
そして、彼はいま外で薪割りをしてくれている。
私は調理場で木の実の皮を剥いていた。
館にいた時は調理をさせてもらえなかったので、
木の実は煮る、魚は焼く、それ以外の調理方法をまったく知らない。
それに関しても傍で見てきた記憶を頼りにやるしかないので、若干の不安があった。
やがて、ポリーが割った薪を持ってやってきた。
そこからが大変だった。
館の調理場の火が終日つきっぱなしだった理由が分かった。
ゼロから火を起こすというのは容易ではないからだ。
石を打って火種を起こし、麻布に火を灯す。それだけのことでも、何度も失敗をした。
カマドが使えるほどに薪がしっかりと燃え始めた時には、もう夕方だった。
ポリーも私も料理に関しては、からきしダメだった。
けれど、初めて食べた魚は骨に苦労したが、身がふわふわで、ところどころにある脂身がクセになりそうなほどに美味しかった。
木の実は、お世辞にも美味しいとは言えなかったけれど……。
夜になり、私とポリーは同じシーツにくるまって身を寄せていた。



楽しい一日でした……。こんなに伸びやかな時間を過ごしたのは初めてでした。一日というのは、こんなにあっという間に終わってしまうんですね。


燃え盛るカマドの炎を見つめながら、今日一日を振り返る。
いつもとは全く違う一日――
どの瞬間を振り返っても、そこにいる私は笑顔だった。



世界ニハ、キミヲ楽シマセテクレルコトがモット沢山アル……。ダカラ、明日カラハ、一日がモット短ク感ジテ、シマウカモシレナイ。





ありがとう、ポリー。私を連れ出してくれて……。


すぐに返事があると思ったが、なぜかポリーは黙ったままだった。
しばらくの沈黙の後、彼が口を開いた。



……イヤ。ソレにツイテハ、謝ロウト思ッテイタンダ。





え?





僕ノセイデ、リビュはアノ館ヲ失ッタ。





そ、そんなこと……ない。





シカシ、僕ガ見ツカラナケレバ、キミはアソコニ住ンダママデ、イラレタ。少ナクトモ、衣食住ノ保障ハサレテイタ。


たしかにその通りかもしれない。だけど、そんなことよりも――



私は……今が幸せです。ポリーとずっと一緒にいられる今が……。ポリーと好きなところに行くことのできるこれからが、本当に楽しみで仕方がないのです……。





……。





だから、謝ったりしないでください。謝られると……寂しくなってしまいます……。





……スマナイ。イヤ……ナント言ッタライイノカ……。


うなだれるポリーに、私は言葉を続けた。



……ずっと自由を夢見ていました。私はポリーと出会う前から、外に出たいと思っていました。その夢を叶えてくれたのは、ポリー……あなたです。だから、もう一度言わせてください――


どれだけ嬉しいのか、どれだけ幸福なのか、出来る限り彼に伝わるように、私は目一杯の笑顔で言った――



ありがとう。





……礼ヲ言ワナイト、イケナイノハ、ボクダ。ボクモ、以前のキミト同ジデ、幸セナ生活トイウモノヲ半ばアキラメテイタ。シカシ、今日ココにアッタノハ、マサシク“幸セ”ソノモノダッタ。





……。





リビュ……。アリガトウ。キミと出会エテ、本当ニ、ボクハ幸セ者ダ。


そんなことを言われたら胸の奥から熱いものが込み上げてきてしまう。
目頭に涙が溜まるのが分かって、私は慌てて顔を逸らした。



そんな……こと、言われたら……。ポ……ポリー。あ、明日は……明日はなにをします?


つい話題を変えてしまった。これ以上は、嬉し泣きをしてしまうと思ったから。



ソウダネ……。リビュはナニガシタイ?





私は……キノコというものを食べてみたいです。





キノコ……。分カッタ。食ベラレソウナモノヲ、一緒に探ソウ。毒ノアルモノも多イカラ、ボクガ知ッテイル安全ナモノダケヲ採ル、トイウコトにシヨウ。





はいっ。


ポリーと森を散策することを想像すると、今から楽しみで仕方なくなってきた。



あ……。あと、リスを見てみたいです。





オ安イ御用。キノコヲ探シナガラ、リスも見ツケテアゲヨウ。


結局、私のやりたいことは明日一日では収まり切らないほどあって――
明後日、しあさっての予定も次々と増えていった。
全部が全部、嬉しい予定。
そうやってポリーと未来の話をするだけでも楽しかった。
そうして、そろそろ寝ようという時――
ポリーが手を差し出してきた。



コレヲ、キミニ……。


開かれた手の平には、可愛らしいピンク色のリボンが一本のっていた。



ぇ……?





……。





もらっていいんですか?


恥ずかしいのか、こちらを見ようとしないポリー。その頭が小さく縦に振られた。



ポリー……。ありがとう。


その手からリボンを受け取る。
主様からの施し以外では、初めてもらったプレゼント。
思えば、ポリーは私にたくさんの“初めて”をくれる。



……大切に使いますね。その……、さっそく髪飾りにしても、いいですか?





モチロン……。


紐で結わえていた髪をほどき、もらったリボンで結び直した。



ヨク似合ッテイル……ヨ。





……ぅ……あ……。


今度は私が照れくさくなって、ポリーの顔が見れなくなってしまう。



今ハ……コンナ物シカ、アゲラレナイガ……。イツカハ、モットキチントシタ、プレゼントヲ用意サセテクレ。





いいえ……。これがいいです。


朝になったらすぐに泉に行って、水鏡に自分の姿を映してみようと思った。
私たちの間にはどこかくすぐったい空気が流れ――
結局、眠りにつくまでお互いに喋ることはなかった。
けれども、その無言の時間は微塵も不快ではなく、
同じ時間と同じ想いを共有しているんだと、
そう感じられる心地よいものだった。
幸福に満たされると人間は盲目になる。
ささいな変化にも気付けなくなる。
わたしは幸福という名の蜜に溺れる愚かな娘だった。
大切なことを見落としてしまっていた。
そのことにようやく気付いたのは、
この泉に来てから一カ月ほど経った頃だった――
