エピローグ
エピローグ
港町を照らす朝陽に、ダイ・シュティンドルは双眸を細めた。
海原は銀色にきらめき、海鳥が海面すれすれを飛び交っている。
まだ早朝だというのに、波止場は荷役にいそしむ者や船客、魚介類の仕入れを行う商人たちでにぎわっていた。
ダイはその喧騒から離れた桟橋の一角、積み荷と思われる木箱の陰に身をひそめていた。
目当てのマルゼ行きの中型帆船はすでに係留済み。客が続々と乗り込んでいく中、ダイは船に忍び込む機会をうかがっていた。
犬の身なので、無賃乗船はこの際許してもらうことにする。
船の出発時間が間もなくなのは知っていた。
三年前の夏、避暑のため家族でマルゼの行楽地に行ったことがあるからだ。
しかし今回の目的地はそこよりはるか遠い、内陸のレモニストン公国だ。長旅になるだろう。
それを思うといささか憂鬱にもなるが、そんなことも言っていられない。
自分の本当の姿を取り戻すためだ。
想像以上の困難が待ち受けているだろうが、諦めるわけにはいかなかった。



諦めない……か


森の中で出会った少女のことが頭に浮かんだ。
出会ったばかりは暗い表情でおどおどした印象だったけれど、魔獣との戦いを乗り越えた彼女は、眩しいほどの意志の強さを垣間見せた。
“ダイがひとの姿を取り戻すまで、わたしがあなたの声になるわ”
別れ際、彼女はそう言ってくれた。
正直、うれしかった。彼女の存在が頼もしかった。
幼い頃から、侯爵家の者として冷静沈着なふるまいと教養を叩き込まれたダイ。
武芸全般、とくに剣術に関しても、武闘大会で優勝できるまでに鍛えられた。
培われた精神力と向上心によって、物事を前向きにとらえられる性格と自信は手に入れたが、やはりこの状況に不安を覚えないと言ったら嘘になる。
たったひとりで、いや一匹で目的を果たさなくてはならない。途方もない旅路になりそうだ。
だから彼女が旅に同行するといったときは、心が揺れた。自分の言葉を理解できる彼女がそばにいてくれたら、どんなにか心強いだろう。
そう思ったが――。
ダイは首を横に振った。



やっぱり、巻き込むわけにはいかない


魔獣に呪われた自分と一緒にいたら、常に命の危険がつきまとう。
魔法師になる夢に向かって歩き出した彼女を、そんな目に合わせるわけにはいかなかった。



怒るだろうな、彼女


昼を過ぎて港町を訪れた彼女は、自分がいないことを知って騙されたと知るだろう。
恨まれるのは決定的だ。



いつかひとの姿で再会したときに、平謝りしないといけないな


ダイはフッと笑って、積み荷の陰から出た。
出航間近になり、乗船する客の流れが途絶えていた。乗船口と桟橋との間に架かった板が外される前に、素早く乗り込むことにしよう。
あとは船倉にでも隠れていれば、明日の夕方には無事マルゼにたどり着くはずだ。
そう思い、タタッと動き出したときだ。
むぎゅっ。
突然尻尾をつかまれ、ダイは悲鳴を上げた。
ビリッと痺れた尻尾に涙目になりつつ、慌てて振り返る。
そこには――。



な~にしてんのかな、ダイ


ダイの尻尾を握りしめて立つ、リーシャ・ヴィンデの姿があった。



リ、リーシャ!?


眉を吊り上げ、じろっと睨んでくるリーシャは、こぎれいなブラウスとスカートに、薄手のカーディガンを羽織っている。
肩から下げた布の鞄には旅道具が詰まっているのだろう、大きく膨らんでいる。
同様に、彼女の頬も怒りで膨らんでいた。



ダイ、あなたねえ


彼女が来る前に旅立つつもりだったダイは、うろたえた。



どうしてリーシャ!?





ダイ、あなたって強いし、優しいし、頼りになるけど、意外に抜けたひとだったのね?


声音には怒りをにじませつつ、リーシャは呆れ顔を浮かべた。



わたしに嘘をついても、心の声が伝わってくるってこと、ど忘れしてるんだもの





あっ


本当にど忘れしていた。
彼女には、偽りに隠された心の声、それを識る魔法がかけられていたことを。



ちゃんと伝わって来たわよ。昨晩あなたが、昼過ぎの船に乗るって言ったとき、ホントは朝一番の船で旅立つつもりだってことがね


自分の迂闊さを悔やむダイを、リーシャは得意げに見下ろした。
相変わらず尻尾を離してくれないものだから、ダイのほうは動きようがない。



そんなうっかり屋のあなたを、やっぱりひとりにしてはおけないわ





で、でも――


尻尾を握る手に力が込められ、ダイは反論を封じられた。



これはわたしに嘘をついた罰


リーシャはスカートのポケットからなにかを取りだすと、身動きできないダイの首元に手を伸ばした。



え?


かすかに首を絞めつけられる感触。
小首をかしげるダイ。
首元から伸びた革製の紐に気づき、ようやく自分がなにをされたのかを理解した。



首輪!?


ダイの首には細い首輪が巻かれ、リードの先はリーシャの手にしっかりと握られていた。



リーシャ、これはあんまりじゃ……


ダイの訴えを、リーシャがにっこり笑って跳ね返す。
はあ~、とダイは嘆息する。
今はなにを言っても無駄な気がした。
そんなダイをよそに、リーシャは意気揚々と告げた。



約束するわ。飼い主は飼い犬を守ることを。だからあなたも――


リーシャに目でうながされ、ダイはついに観念した。



やれやれ


と、首をすくめるようにうなずき、それからリーシャを見つめ返す。



約束するよ。飼い犬は飼い主を守ることを


破顔するリーシャ。



絶対よ





絶対だ





わたしたちの間に、嘘は――





なしだ


リーシャはダイの首元に抱きつき、呟いた。



ごめんね、首輪。でもこれで堂々と船に乗れるでしょ?





君の飼い犬としてね


リーシャはくすっと笑い、立ち上がった。



行きましょう、ダイ。大変だけど、きっと楽しい旅になるわ


リードを持ったリーシャが船に乗り込んでいく。
その傍らを歩きつつ、ダイは横目でリーシャを見上げた。
前を向いた彼女の瞳は、遠い未来を見つめるかのように輝いていた。
彼女とともに行くことに不安はぬぐえない。
けれど、それ以上に胸が躍っていた。わくわくしていた。
ならばこの先必要なのは覚悟と信念。ふたりの旅を守りきる強い意志だ。
守りきろう。
決意を胸にダイは彼女を見つめた。悪くない、と思った。
並んで歩きながら、ここから彼女を見上げていくのも悪くない、と。
甲板に上がったふたりを、朝陽が優しく包み込んだ。
澄み切った青空と海原に、わあっとリーシャが歓声を上げ、ダイとリーシャをつなぐリードが潮風に揺れた。
おしまい
