東雲家の一戸建てに訪れて最初に紫月を出迎えたのは、さっきよりもさらに元気な東雲宗仁の飛び蹴りだった。

　玄関の手前で大の字になって空を仰ぐ紫月の目尻から涙がちょろりと垂れる。

　宗仁が腕を組んで鼻を鳴らす。

　あゆが腰に手を当ててぷりぷり怒っている。可愛い。

　紫月は龍也の手を借りて起き上がり、苦い思いのまま弁解する。

　いまの一言で、紫月の闘争心に小さな火が灯った。

　出会ってすぐにいきなり襲われたのは気に喰わないが、だからといって白黒がつかないのも同じくらい納得がいかない。

　葉群紫月という男子は、これでも意外と負けず嫌いなのだ。

　宗仁は玄関の奥に引っ込み、身支度を整え始めた。

　宗仁が決闘の場所に指定したのは近所の広い公園だ。最近は街中のパトロールが強化されたとはいえ、武器さえ使用しなければ、ここでいくら二人が喧嘩していようと『空手の練習』と説明すれば事なきを得られる。

　紫月と宗仁が距離を開けて向かい合うと、外野に突っ立っていたあゆが忠告する。

　紫月がくいっと顎を上げる。

　気乗りしない様子で、レフェリーに指名された龍也が片手を挙げる。

　二人がファイティングポーズを取り、腰をやや低めに沈める。

　両者の踏み込みは鋭い。すぐに間合いに入り、手首と体勢の奪い合いから入る。これは剣戟で言う鍔迫り合いと同異議だ。

　宗仁の身のこなしは想像以上に身軽で鋭い。年齢を全く感じさせない動作は、むしろ年季そのものを感じさせる。

　紫月が用いている格闘技はジークンドーで、対する宗仁は空手とサバットの亜流といったところか。お互い、威力の決定は打撃に依るところが多い技のぶつかり合いだ。

　とは言ってみるが、それが無理なのは紫月が一番良く分かっている。

　やっぱりこの爺さんは強い。本物の忍者かどうかはともかくとして、やっぱり技のキレや重さは喰らっているこっちが勉強させられているようだ。

　宗仁は一旦間合いから離脱すると、全身から力を一瞬だけ抜いた。

　紫月は目を疑った。

　どういうトリックかは知らないが、視界の中で宗仁の姿が二つに増えたのだ。

　真横から来る――直感的に悟って反応すると、盾にした腕に宗仁の拳が当たる。

　いま視界に映った二つの分身をフェイクにして、視界から外れていた本体が死角から攻撃する。これが旋脚万雷とやらの攻撃手順か。

　紫月は大きく後ろに跳ねて宗仁の間合いから外れる。今回のルールなら、どんな技も腕が届かなければ当たらない。

　しかし、甘かった。

　宗仁は既に、紫月の足元でしゃがみ込んで、拳に力を溜め込んでいたのだ。

　紫月の顎目掛けて伸ばされた腕が螺旋する。腰の回転と腕の螺旋をかみ合わせて打撃の威力を上げる技か。

　ならば、対処法は簡単に思いつく。

　右の肘を相手の掌に正面から叩き込み、打撃の威力を相殺する。

　これには宗仁も目を丸くして驚いた。

　突然出てきた名前に、紫月は一瞬焦り、動きを止めてしまった。

　気を逸らしたわずかな隙を縫い、宗仁の左手が紫月の鳩尾を打つ。

　突如として襲い掛かる吐き気と息苦しさに、紫月は膝から沈み、地面に蹲った。

　卑怯な手で勝ったにも関わらず、宗仁はまるで子供のようにはしゃいでいる。

　納得がいかねぇ。たしかに鳩尾以外の急所は狙っていないし、口頭での攻撃は反則に含まれていないが、だからといって言っていいことと悪いことがあるだろうが……！

　突如として聞き慣れた声が頭上から降り注いだかと思ったら、見覚えのある制服姿の少女が正面から紫月の有様を見下ろしていた。

　特徴的なポニーテールに端正な小顔。いつもと変わらない無表情。

　彼女は貴陽青葉。紫月の数少ない友人の一人だ。

　たしかに、事情をよく知らない通りすがりの人間からしたら、未だにはしゃいで飛び回っている老人の前で蹲る高校生男子の無様な姿は不思議にしか映らないだろう。

　宗仁がようやく青葉の存在に気付き、素っ頓狂な声を上げる。

　さらっと嘘をぶっこく青葉であった。

　宗仁の中で変なスイッチが入ったらしい、青葉とあゆの姿を交互に見回し、最後に紫月を凝視する。

　いつの間にか青葉の前にいたあゆが礼儀正しくお辞儀する。

　俺の周りには平然と嘘を並べ立てる女しかおらんのだろうか。

　青葉とあゆの、平和的であり物騒でもある社交辞令が続く。

　そもそも紫月と青葉が初対面したのは二か月くらい前の話だ。三年どころか三か月記念日すら迎えていない。ていうか記念日って何だ？　いちいち記念日の度に祝ってたら彼氏の生活能力がみるみるうちに溶解するわ。祝った瞬間に呪われるわ。

　東雲あゆよ。
君は俺に何か恨みでも
あるのか？

　そしてジジイ、
お前はもう黙れ。

　宗仁が蹲ったままの紫月の背中にがんがんと蹴りを入れてくる。

　それにしても、やけに蹴りの威力が弱いな。どうした爺さん。もうちょっと力を入れてくれないと、物理的な痛みを精神的な痛みが上回っちゃうじゃないか。それはそれであんたの嫌がらせなのかい？　ねえ、泣いていい？　泣いていいよね？

　紫月が涙ぐんでいると、そろそろこれが引き際と思ったらしい、青葉とあゆはプチ愛憎劇を中断した。

　宗仁が紫月の首根っこを掴んで体を持ち上げた。

　こうして、紫月は公園の外れにある大きな樹木の下に連行された。

　木の傍に寄り掛かり、宗仁が息を整えながら言った。

　こちらへの折檻が折檻になっていないと思った時点で、宗仁にも何か思うところがあったというのは大体察しがついていた。

　宗仁は公園のベンチでお喋りに花を咲かせている女子二人とスキンヘッド一人を眺め、初めて紫月の前で柔和な笑みを見せた。

　いきなり話題を変え、宗仁は遠い目をして言った。

　普通に実戦レベルで強力な技だろうに、あれが遊びだと？　にわかに信じられない。

　元気な分だけ知恵の巡りも早いのだろうか。いまの宗仁は年相応に老獪だった。

　どうやら宗仁には人探しの結末が見えているらしかった。

　死角からフックを貰った気分だった。この爺、いつの間に俺の素性を調べたんだ!?

　龍也とあゆにこちらの素性が割れてしまったのは仕方ないとして、青葉にだけは絶対に知られたくない理由があった。もしかしたら、宗仁はそれも知っているのかもしれない。

　宗仁は紫月の正面に回り込んで、固く握り込んだ右拳を腰だめに引いた。

　宗仁は右拳を鋭く押し出し、紫月の額にぴたりとくっつけた。

　おそらく風魔戦技とやらは数々の超人芸の集合体だ。その中で最後を名乗る技が、ただのワンパンチだなんて馬鹿げているにも程がある。

　だからこそ、この拳骨は彼にとって一番大事な技なのだろう。

　宗仁が拳を引いた。

　話が一区切りついたところで、紫月は口をぽかんと開けた。

　どういう話の流れでああなったのかは知らないが、分身しまくったあゆを青葉と龍也が必死に追い回していたのだ。

　全く以てその通りだ。それに、理解したとして体得出来そうな技でもない。

　時刻は既に、夜の八時半を回っていた。