その朝の久成は、いつもと違う目覚め方をした。
どこからか妹の笑い声を聞いたのだ。
その朝の久成は、いつもと違う目覚め方をした。
どこからか妹の笑い声を聞いたのだ。



ふふっ……大はしゃぎですね、初音さん





……


懐かしささえ感じる、愉快そうな、娘のような若い声だった。
久成は半身を起こし、大きく一つ欠伸をする。途端、朝餉の品の匂いを嗅ぎ取り、腑に落ちた思いになる。
佐和子が一人で笑っているはずもなく、その隣にはもう既に初音がいるのだろう。今朝はあの妻の大好物を作る手はずとなっていたから、二人ではしゃぎあっているのかもしれない。
顔を洗ってから囲炉裏端へと足を向ければ、佐和子の笑い声と共に初音の弾んだ声も聞こえてくる。



あらあら。
初音さんは本当に、豆ご飯がお好きですね





はい、大好きです。とてもよい匂いがします


佐和子の隣には、またしても見慣れぬ若い女がいた。
障子の影から囲炉裏端を覗いた久成は、今朝の初音の姿を遠目に見て、どんな言葉をかけようかと一足早く頭を巡らせる。
今朝はまた美しい着物をまとい、髪も上品にまとめ上げているようだ。先日のように少女の姿ではないことに安堵しつつ、美人に化けていれば化けていたでまともな誉め言葉も出てこないのが困りものだった。
そうして久成が思案に暮れた後、障子を開けようとすると、妹と妻が何事か話し始めた。



そろそろ兄上を呼んできましょうか?
初音さんが待ち切れないから、早く起きて支度をなさってと





いいえ、私は久成様をお待ちしております。
久成様はこれからお仕事ですのに、早く起こしてしまっては申し訳ないですから





……


初音の殊勝な答えを聞き、久成は障子にかけた手を思わず止めた。
自分のいないところで自分の名を口に出されると気まずいものだ。会話が途切れたところで出ていこうと思ったが、二人はなおも久成について話し続ける。



でも、初音さんも辛いでしょう。
目の前でよい匂いがするのに、ずっとお預けでいなければならないんですもの





そんなことはちっともございません。
私、待つのは平気です





兄上も初音さんの為なら、多少の早起きくらいしてくれますよ





えっ、そうでしょうか……





ええ。
兄上は口下手ですけど、初音さんを大切に思っているのは言わなくてもわかります





そうですか……!
久成様はやはり大変お優しい方です!





ええ、とても口下手ですけど





……


新妻と比べると妹はどうも辛口だった。
障子の隙間から覗く囲炉裏端で、妹と妻は仲睦まじく並んで座っていた。
明々と照らし出された中でも初音の顔はよく見えず、しかし既に身支度を整えているらしいことだけはわかる。一方の佐和子は笑んでいる横顔が、距離を置いてもはっきり捉えることができた。
佐和子が火箸で炭を転がす傍ら、初音はじっと座っていたが、時折視線を奥座敷へ――久成が身を潜めている方向へと走らせる。潜んでいることに気づかれたかと思ったが、そうではないらしい。恐らく小豆飯の匂いの中ではじっとしているのも難儀なのだろう。
好物を目の前にして焦らしては悪い。
そう思った久成が意を決して出ていこうとすれば、計ったように佐和子が語を継いだ。



初音さんは、お内儀様の鑑でいらっしゃいますね


障子を開けようとする手がまた止まった。



とてもそこまでのことはございません。
私はまだまだ未熟な、至らぬ妻です


恥じ入る初音が俯き、佐和子がふふっと笑声を立てる。



至らぬと言うなら、あの兄も同じです。
何かと不器用な人ですから、初音さんを戸惑わせてやしないかと心配です





……


咳払いしたくなったのを、久成はどうにか堪える。
本人の不在をよいことに全く何を言うのか。



久成様はとても温かくて、お優しい方です。
こうして私の為に小豆を調達してくださいました。
あの方こそ、旦那様の鑑と呼ぶべきお方です


初音は柔らかな口調で義妹の言葉に応じる。
言い過ぎだ。久成は胸中で呻く。
ことさらに出ていきづらくなった上、こうして息を潜めているのも盗み聞きをしているようで後ろめたい。この後どう動いてよいのか見当もつかぬ有様だった。



それに、佐和子さんもです。
お二人がとても優しい方で、私は幸いに存じます


続けた答えに佐和子は、やはり軽く笑ったようだ。自身も幸せそうに続けた。



ええ。
私も初音さんがいらしてからというもの、毎日が幸せです


それから二人はころころと笑い合う。
佐和子と初音と、二人の仲睦まじいことはありがたかったが、久成にとっては面映いことも多々あるのだった。妹の言う通り、初音は殊勝でよい嫁だった。家事が出来なかろうと毎日顔が変わろうとそれは確かだ。
ともあれ、初音が腹を空かせているのに足踏みを続けているのは意地が悪い。
会話が途切れたところで、久成はようやく障子を開けた。囲炉裏端の二人はほぼ同時に気がつき、振り返る。



おはようございます、兄上





おはようございます、久成様





ああ、おはよう


妹と妻が揃って、丁寧に頭を下げるので、久成は先の立ち聞きを気取られぬようにふるまおうとした。だが面映さは今更どうしようもなく、自然と相好を崩す結果となった。
幸いと言うなら、実にその通りなのだろう。
久成が囲炉裏端に腰を下ろすと、待ち構えていたように初音が小豆飯をよそい始める。



久成様、今朝はたくさん召し上がりますでしょう?





……いや、いつも通りでいい





かしこまりました!


いつも通りでと言ったはずだが、初音はようやく使い方に慣れた飯杓子で小豆飯をたんまりと盛り始めた。
久成はそれを制止しようとして、しかしやめた。
それよりも張り切る初音の姿を見ている方がよかった。
今朝の初音は、今までになく美しい顔立ちでいた。
それは化け方や装い方そのもの以上に、内面から滲み出る喜びによるものなのだろう。伏し目がちに飯杓子を動かす仕種はいきいきとして映る。ひとたび面を上げれば、化粧を施された顔立ちには何とも瑞々しい感情が溢れていて、ふと気づけば見とれてしまっていた。
初音は随分と久成のことを誉めそやしてくれていたが、佐和子の言う通り、初音こそ温かで優しく、素晴らしい妻だと思えてならない――。
居心地の悪さを押し隠すように、久成は口を開いた。



今日はまた随分と早い支度だったな、初音





はい。
豆ご飯のことを考えたら、いつもより上手くいきました


正直に答えた初音が、小豆飯の茶碗を差し出してくる。かんざしの音が火の傍らで涼しげに響く。



どうぞ、久成様





ああ


それを受け取り、久成は苦笑いを噛み殺す。
初音の真意はわかっていても、ついつい心中の疑問を告げたくなる。



お前は俺なんぞの為よりも、小豆飯のことを考えて化ける方が上手くゆくのではないか





まあ、兄上


すかさず佐和子は咎める眼差しを向けてきた。
早速の不器用さを発揮した兄に、多少の苛立ちも覚えているようだ。
久成も失言を今更のように悔やんだが、初音はまるで気にするそぶりもなく、無邪気に答えた。



仰る通りなのかもしれません。
私にとって豆ご飯は、久成様と、佐和子さんと同じですから





同じ、とは?





豆ご飯は何もなしには食べられません。
久成様が小豆を用意してくださって、佐和子さんがそれでご飯を拵えてくださって、ようやく口にできるものでございます


問い返した久成へ、初音ははきはきと語る。



ですから、久成様にも佐和子さんにも感謝しております。
お二人のお心遣いのお蔭で私は豆ご飯が食べられます。
本当にうれしゅうございます


語り終えてから急に気恥ずかしくなったのか、そこで初音は頬を染めた。
初々しい言動に対し、久成もまた言葉に詰まる。こうも真っ直ぐな物言いをされると何と言っていいのかわからなくなる。
しかし初音の隣で、何か言いたげにしきりに頷く佐和子を見て、やがて溜息をつく。覚悟が決まる。



言葉が過ぎたな。
済まなかった、初音


素直になってそう告げると、初音は頓着した様子もなく即座に笑んでくれた。



どうぞお気になさらないでください、久成様


妻のそういう気立てのよさは、今朝の顔立ちよりも余程久成の心を掻き乱した。ぎくしゃくと、無言のまま小豆飯を食べ始める。
まずは一膳平らげた。唐変木だろうと久成も大の大人には違いなく、佐和子や初音と比べれば当たり前のように健啖だった。麦飯なら三膳は食べる。
だが今朝は、一膳で止めてしまった。



もう、よろしいのですか


怪訝に思ったか、佐和子がそっと尋ねてくる。久成はしかつめらしく答える。



もういい





でも兄上、いつもより召し上がっていませんでしょう





あとは白湯でも腹は膨れる。
残りはお前らで食べるがいい


当人はさりげなく言ったつもりでも、語るに落ちたというのはよくある話だ。この時も妹は敏く、兄の本心を言い当ててみせた。



初音さんの為、ですね





わあ……





……俺は、お前らでと言ったのだ


久成は頑なに主張した。が、妹からは訳知り顔を、妻からは潤んだ瞳を向けられて、どうにも居た堪れなくなった。



そうだ、今日は早めに出ていく用があった





そうでしたか?
昨日は何も仰っていませんでしたけど





たった今思い出したのだ


久成は言い張ると、囲炉裏端からよれよれと逃げ出した。唐変木に女二人では全く分が悪かった。
着替えを済ませて土間へ出ると、今朝も初音は駆けてきて、置いてあった鞄を両手に抱えた。
下駄を履いて立ち上がった久成に、そっと鞄を差し出してくる。今朝も見慣れぬ顔ではあったが、弾けんばかりの素晴らしい笑顔だった。



久成様、どうぞ!





……そんなに美味かったか


久成が問うと、笑顔が照れ笑いへと移り変わる。



はい、とても


見慣れぬ顔だろうと初音は初音、物言いも滲む感情も愛らしいと久成は思う。貧乏暮らしでさえなければ、毎日好物を食べさせてやるというのに。
こちらの心底を見透かしたか、初音はふと気遣わしげになり、問い返してきた。



久成様はたったの一膳で、お腹がいっぱいになりましたか





なった、十分だ


武士は食わねど高楊枝とはよく言ったものだ。
久成は泰然とふるまうよう心がけ、初音から再び素晴らしい笑顔を引き出す。



本当にありがとうございます、久成様





このくらい当然のことだ、礼は要らん。
留守を頼むぞ、初音





はい、いってらっしゃいませ。
お帰りをお待ちしております、久成様!


妻の愛らしい表情は、それだけで腹をいっぱいに満たしてしまう。だから小豆飯を詰め込む必要もない。
とは言え、そんなことはおくびにも出さない久成だった。家長としての威厳を気にしつつ、背筋を伸ばして家を出る。見送る初音の方へは決して振り返らない。
そして朝の畦道を辿り始めてから、ようやく反芻するように独り笑むのだった。



……全く、幸せなものだ


