その日の朝、現れた初音を見た久成と佐和子は、揃って絶句した。
その日の朝、現れた初音を見た久成と佐和子は、揃って絶句した。



……





え、ええと……初音さん?


いつもよりも小柄な初音が屈託ない表情で答える。



はいっ。
おはようございます!


この日の初音はどう見ても少女だった。
まだあどけなさが残る顔立ちは多く見積もっても十四、五というところで、おさげにした髪が幼さを一層際立たせている。
久成と佐和子が黙って見つめていると、初音は急に不安になったように表情を曇らせた。



あ……あの。
私、どこかおかしいでしょうか……





おかしくはないな。
昨日よりも小さいだけだ





小さい……ですか?





と言うより、若いと言うべきか


言葉を選ぶ久成の横で、佐和子もようやく我に返ったようだ。まだ驚きに目を瞠りながらも、初音に声をかけた。



と……とりあえず、朝餉にいたしましょう。
初音さん、お手伝いをお願いできますか?


初音はその言葉に、どこか釈然としない様子で頷いた。
久成からすればこちらの気分は釈然としないどころの話ではなかったのだが――すぐに今更だと思い直した。
奇妙な嫁を貰ったのだ。こういうことも起こり得る。
佐和子と初音が支度を済ませ、微妙な空気を引きずりながらも三人で食事を始めた、その直後のことだった。



栄永先生!





せんせぇ!


家の外から子どもらの声がして、久成は飯に噎せた。
昔ながらの古い家は囲炉裏のある板間と土間とが一続きになっており、玄関の戸はすぐ目の前だった。
呼びかけられた声に、三人は思わず顔を見合わせる。家の空気が張り詰める。



……





……





……兄上


直後、真っ先に動いたのは佐和子だった。湯飲みに白湯を注いで兄に手渡した。
久成はそれを受け取り二口飲んでから、ふうと大きく息をつき、外へ声を張り上げる。



今行く、少し待っていろ


訓導の言葉を聞いた子供らは、わあわあと甲高くはしゃいだ。



いいもん持ってきたのに、早くしないと帰るぞお





先生出て来い、先生出て来い!


朝方の鳥よりも賑やかに、口々に囃し立ててくる。
久成は苦笑しつつ、佐和子と初音に小声で告げた。



あれは教え子らだ





ええ、兄上……


佐和子が不安げな面持ちをするので、久成は素早く頷く。そして湯飲みを置いて立ち上がった。



初音、こちらへ


新妻をそっと促し、ほっそりした手を取った。その手を引いたまま囲炉裏端を離れて家の奥へと急ぐ。初音も心得たもので、無言のまま久成の後に従った。
向かった先は納戸の前だ。
そこで足を止めた久成は、建てつけの悪い戸をどうにかして開ける。中には使われていない布団や衣類がしまい込まれていて、いかにもそれらしい、埃っぽい臭いがしていた。
真っ暗な上に狭い場所だったが、幸いというべきか、一人分程度の隙間はあった。



悪いな、こんなところに押し込めて


久成が囁くと、初音は柔らかく笑んでみせる。



いいえ。私、暗いところは嫌ではありません


嘘でもないのだろうが、だからと言って罪悪感が薄れるわけでもない。
来客がある度に女房を納戸へ押し込むなどと、夫として非道なことこの上ない。久成は申し訳なさでいっぱいになりながら、弁解するように囁いた。



……あいつらを帰したら、すぐに呼びに戻る





私のことはどうぞお気になさらず


気丈な言葉に背を押され、久成は苦い思いで納戸を閉じる。
それから土間へと取って返した。
つっかい棒を外して玄関を開けると、朝日と朝の空気と共に、教え子二人がなだれ込んできた。二人とも筒袖の着物に藁草履といういでたちで、久成の顔を見るなり黄色い声を上げてくる。



先生遅いよ、帰っちまうとこだったよ!





うわあ、先生の家だ!
美味しそうな匂いがする!


たちまち家の中が騒々しくなる。
仕事柄子供らの声を聞き慣れているとは言え、学び舎で相対するのとは訳が違う。自宅に立ち入られると陣地を取られたような気分にさえなり、久成は教え子らのはつらつさに面食らった。ようやく一言切り出した。



お前ら、一体何をしに来た。こんな時分に


すると教え子のうち男子の方が、握り締めていた小さな布包みを差し出してくる。



先生、これ





これは?


受け取った久成の手の中で、布包みはしゃらりと音を立てた。お手玉のような音だ。



小豆。
母ちゃんが、頼まれてたから渡してこいって


覚えがあった。
この村では余所者の久成と佐和子だが、訓導の職は村人の信頼を得るのに一役買っていた。そうして親しくなった村人たちから、ほんの僅かながら食べ物を分けてもらう機会もあった。
世間話の途中でふと、小豆があれば分けてもらえないかと頼んだのはつい先日の話だ。それなら少しばかりありますから差し上げましょうかと言ってくれたのが、この男子の母親だった。



おつかいに来てくれたのか。ありがとう


久成が小豆の包みを持ち上げ、礼を述べる。
二人は揃ってにいっと笑ったが、そのうち女子の方が家の中を見てすっとんきょうに叫んだ。



あっ、女の人がいる!


指を差されたのはもちろん佐和子だ。
囲炉裏端に居合わせた妹は、その声にすっと進み出て、土間に顔を出してみせた。



あらあら、ありがとうございます


人見知りながら近所付き合いもこなしている佐和子は、この村でもそこそこ顔を知られている。しかしまだ、小さな子にまで覚えられるほどではないらしい。顔を覗かせた途端に言われた。



先生、嫁御さん貰ったの?





馬鹿を言うな。あれは妹だ





栄永久成の妹、佐和子と申します。
是非、顔を覚えてくださいね


丁寧な挨拶も子供らにはすぐ飲み込めないらしい。佐和子の言葉に、二人は額をつき合わせてわいのわいのと騒ぎ立てる。



嘘だあ。先生と妹さん、ちっとも似てねえ。
やっぱ嫁御さんだろう





似てなくてもありゃ兄妹だって。
お前、知らなかったのか





そういえば、うちの母ちゃん言ってた。
先生みたいなとうへんぼく、嫁の来手なんざそうそうないって。
じゃあ妹さんかあ……


年端もゆかぬ連中に、果たして『唐変木』などという言葉が理解出来ているのかどうか――内心呆れた久成だったが、言われた内容自体は否定し切れなかった。
自分に嫁の来手があるとは思わなかった。
田舎暮らしで稼ぎも少なく、おまけに時代遅れの気質と来ている。数年前、この村に移り住んできた時から、嫁を貰うことなど端から諦めていた。それが何の因果か、初音のような女がひょっこり現れるのだから人生はわからぬものだ。
教え子らが来た時と同様に、賑々しく帰っていった後、久成は貰った布包みを佐和子に手渡そうとした。



小豆だ。これで、美味いものでも拵えてくれ


しかし、妹は包みを受け取らなかった。



兄上。
初音さんに一度、見せてあげた方がよろしいでしょう


控えめながら、冷やかそうとする笑みを見せる。他人の前では決して見せることのない表情だ。
心底まで全てを見透かされているようで、久成は居心地の悪さを覚える。



小豆をか。
見せるだけではあれも喜ばぬだろう





いいえ、きっと喜んでくれます





そうだろうか……





そうですとも。さ、お仕事の前に初音さんを呼んできてくださいませ


妹は太鼓判を押したのか、それとも釘を刺したのか。どちらともわからぬまま、久成は小豆を手に納戸へと向かう。
納戸の前に立ち、呼びかける。



初音


直にくぐもった答えが返ってきた。



はい、久成様





出てきてもいい。あいつらは帰った


久成が告げると、戸は内側から軋みながら開けられた。
這い出てきた初音は瞬きを繰り返している。視線を上げ、夫の姿を確かめてから立ち上がる。



辛くはなかったか





この通り、平気です





しかし、お前には済まぬことをしている


詫びようとする久成を、初音は眼差しで押し留める。小首を傾げて語を継いだ。



元はと言えば、私が至らぬ妻だからいけないのです。
一刻も早く慣れるようにいたします


そう語る初音の面立ちは、やはりどう見ても無垢な少女だった。
これでは顔を覚えられぬのも無理はない。
初音もしばらく久成を見上げていたが、はたと気づいたように声を上げた。



ああ、ようやく久成様の仰った意味がわかりました。
今朝の私は、小さいのですね


正対して見つめ合う距離がいつもより遠かった。
今朝の初音はことのほか小さく、背丈だけならば発育のいい教え子とも大差ない。



失敗してしまいました……。
これでは久成様の妻として、ふさわしくありません





いや……まあ、気にするほどでもない。
また明日の朝、励めばいいことだ


上手い慰めの言葉が思いつかなかった。
それでも何か言わなくてはと必死で頭を捻っていれば、初音はばつが悪そうに語を継いでみせる。



毎日顔の違う女房では、久成様も扱いに困りますでしょう?





俺はいい。
だが、表に出すとなればな……特に子供らは案外聡い。
お前の顔が違うことを悟られては面倒になる


初音は奇妙な嫁だった。毎日のように顔が、そして姿が変わる。
お蔭で来客のある度に隠さねばならず、当然、村人達に紹介することも叶っていない。
表向きは久成も独り身のままで通し、妹と二人きりで暮らしていることになっている。だが嘘をつくことに心苦しさがあった。できるものなら早いうちに皆へ打ち明けたいと思っているのだが――。



ご心労をお掛けします、久成様


初音が眉尻を下げる。
そういう表情もここ一月、毎日のように、違う顔の上で見ている。女房の顔を一向に覚えられぬのは、新婚の面映さのせいだけではない。
それでも久成は、初音と共に暮らしている。
初音のことを妻だと思っている。こんな田舎の、貧乏人のところへ嫁いでくる物好きの女は、初音の他にはそういまい。だから粗末に扱うつもりはなく、自分にでき得る限り大切にしてやりたいと思っている。
もっとも、そのやり方には未だ試行錯誤していた。



初音、実はな


妻を慰めようと、久成は急き込んで切り出した。



さっきは小豆を届けてもらったのだ。
ほら、見てみるといい


教え子に貰った小豆の包みを初音の目の前で開いてみせる。
たちまちのうちに、萎んでいた初音の顔が輝く。



わあ……


小豆を入れた豆ご飯は初音の好物だった。
初めて食べたのは嫁入りして間もなくのことだったが、それ以来しきりとまた食べたいと言っていたのを久成は覚えていた。
初音を喜ばせるならこれしかないと思っていた。



これで佐和子に豆ご飯を作らせるといい。
好物を食べればお前の気もいくらかは晴れるだろう


初音の、今朝はことさら小さな手を取り、そこに小豆の包みをそっと握らせる。
すると新妻は頬をほんのり上気させた。



ありがとうございます、久成様。
私の為に……


面立ちこそ少女のようだったが、その瞬間の表情は幼くなかった。いつものような、女らしい顔つきに見えた。
お前の為だと言っていないのに、よくわかるものだ。
久成は困り果てたが、見え透いた行動だったかとこの期に及んで気がついた。なので最後には開き直ってしまうことにした。



女房を喜ばせるのも、夫の務めだ


その言葉は囲炉裏端の妹に聞かれぬよう、細心の注意を払って告げた。
当の女房はうっとりと目を閉じ、手の中の小豆をいとおしむように包む。



私、久成様の妻で、本当にとても幸せです


あどけない声でそんなことを言うものだから、久成は危うく、食べかけの朝餉のことさえ失念してしまうところだった。
