保健室から、十四階にある雨宮准教授の研究室に誘われた怜子に、准教授の少し勿体を付けたような声が響く。



この建物の特殊性に、君はもう気付いているね


保健室から、十四階にある雨宮准教授の研究室に誘われた怜子に、准教授の少し勿体を付けたような声が響く。



早く説明してやれよ、兄貴





うるさい


その雨宮先生に茶々を入れたユータという名の青年に、雨宮先生ははっきりと分かる渋面を作る。
そして少しだけ考える顔をしてから、雨宮先生はこの帝華大学理工科学部の建物の秘密を簡潔に、怜子に説明した。
雨宮准教授の指導教官であった帝華大学教授、橘真は、幾何学を応用し、三次元空間に連続してn次元空間が存在するような空間を作り上げた。その理論を応用して作られたのが、この、帝華大学理工科学部の十四階建ての建物。歪みを利用して建てられているから、講義室も実験室も研究室も、学生に必要な空間すらも、余裕を持って詰め込むことができた。だが。



橘教授の理論は、完璧であったはずなんだ


誰も咳一つしない空間に、雨宮先生の声だけが響く。



しかし、何故か時折空間が歪んでしまう





それが、この建物の唯一の弱点


普通の人には認知できない歪みのある空間は、ほんの時折、歪みの近くにたまたまいた人間を飲み込んで行方不明にしてしまう。雨宮先生の言葉を、怜子の横の椅子に座っていた少女が引き継いだ。



その『歪み』を見つけて、その歪みを正すことが、私達の役割





俺、雨宮勇太の役割は、このギターの音で、『歪み』と『歪み』に囚われた人々を音の違いで見つけ出すこと





私の役割は、この腕の手刀で人為的に歪みを生じさせることです


勇太の言葉を継ぐように、研究室のドアの横で腕組みをしている大柄な大学院生、平林勁次郎が、自身の太い腕を怜子の方に示し、穏やかに笑った。



歪みを生じさせることができれば、その歪みに囚われた人々を助け出すことができます





私、三森香花と雨宮先生の役割は、歪みを解析し、歪みを計算によって元に戻すこと


そして。



我々は、探していたんだ
『歪み』を視ることができる人間を


そう言って、雨宮先生がその緑色の瞳で改めて怜子を見る。雨宮先生の遠慮の無い視線に、怜子は背中が小刻みに震えるのを感じた。
この人達は、私を、取るに足らないと言われ続けてきた自分を必要としている。自分が、役に立つ。それが、……嬉しい。だから。



……あ、あの


震える唇で、声を紡ぐ。



わ、私で良ければ、手伝います!


怜子の言葉に、部屋の四人が安堵の息を吐くのが、怜子には嬉しく感じられた。
雨宮先生を先頭に、解析学の演習の授業で使った中講義室に行く。
『歪み』に囚われた人間は、移動することもあれば移動しないこともある。たとえ移動していたとしても、まだ時間はそれほど経ってはいないから、怜子が最近目撃した場所の近くに居るはずだ。雨宮先生の言葉に、怜子は中講義室を隅から隅まで眺めた。しかし、演習の時に見えた歪みは、今は見えない。夕方の光で赤く染まった部屋が見えるだけだ。勿論、幽霊も。



見えるか?





……


急いた雨宮先生の言葉に、力無く首を横に振る。
やはり、私は役に立たない。怜子は肩を落とした。
次の瞬間。



え?


腕を後ろに引かれる感覚に、はっと振り向く。



……


歪んだ視界に、青白い顔をした女性の姿がはっきりと映っていた。
勇太さんも、香花さんも、平林さんも、雨宮先生も、どこにも居ない。何処かぼんやりとした空間に、怜子は幽霊と二人っきりで、居た。
と。



……助けて


消え入りそうに微かな声が、怜子の耳に響く。



授業に出ないと、また単位を落として留年してしまう


目の前の女性の、真っ黒な瞳から零れ落ちた涙に、心を鷲掴みにされる。
この人は。……私と同じだ。同情に似た気持ちで、怜子は左腕を掴んでいる女性の手を優しく振り解き、その冷たく細い手を右手で優しく握った。その時。



木根原!


怜子の名字を呼ぶ勇太の声と共に、空間が鋭く切り裂かれる。
伸びてきた勇太の、温かい手を、怜子は空いている方の手でしっかりと握った。
次の瞬間、景色が急にはっきりとする。



大丈夫かっ!


いきなり目の前に再び現れた、青ざめた勇太の顔に、怜子はようやく頷いた。
そして掴んだままの手の方を見る。



危ない!


怜子の方に倒れ込んだ女性を抱き起こす勁次郎の太い腕に、怜子はほっと胸を撫で下ろした。歪みに囚われた女性も、無事だった。



とりあえず、保健室ですね


気を失った女性を楽々と抱え上げた勁次郎が、怜子に小さく手を振ってから階段の方へと向かうのが見える。



これで、一件落着だな


次に気が付いた時には、あの女性は『歪み』に囚われていたことをすっかり忘れているだろう。背後から聞こえてきた雨宮先生の言葉に、怜子は心配になって雨宮先生の方を振り向いた。



あの人、単位のこと心配してた





ああ、それは何とかするさ


そう言ってにこりと笑った雨宮先生に安堵を感じ、怜子もにこりと笑う。



それが雨宮先生の仕事だし





バカ弟は黙ってろ


そして。雨宮先生に茶々を入れる勇太の台詞に、怜子は何とか爆笑を堪えた。



でも、無事で良かった


急に消えたから、吃驚した。そう言って、勇太が微笑むのが、見える。
掴まれたままの勇太の手を振り解くことが、何故か勿体無く感じ、怜子はしばらく黙って俯いて、いた。
