霧の街の片隅で、少女は道化に仮面を手渡した。



『犯罪に対する最大の動機は、罰を回避せんとする希望なり』





『君達』の世界から拝借した言葉だね。勿論、ご存知だよね?





『霧の殺人鬼』。本来は彼を指す言葉ではないけれど、『存在』を失い、名前さえ失った彼のため、便宜上だけ今はそう呼ぼう





『霧の殺人鬼』が最初の殺人に踏み切ったのは、恋の為か。怒りの為か。ならば、彼は『かみさま』に出会わなくても、罪を犯していたのだろうか?





出来なかったよ。少なくとも彼はそうだった





人は罰を恐れてる。罪を恐れている訳ではない





『かみさま』が赦してくれるのなら、君達だって罪を犯すだろう?





彼は赦される筈だった。しかし、彼は赦されなかった





彼女が彼を赦さなかったから? それは的外れだ





彼自身が、彼を赦せなかった。ただそれだけだよ





『彼女の為に』。結局身を捧ぐが如きその甘美な響きは彼が罪を犯すに至った方便として、彼が己を裁くが為の方便として、最後の最後の瞬間まで、『彼の為に』しか使われなかったんだ





人は誰が為に死ぬか? おっと、その『答え』を口にしてしまうのは、少し野暮だったかな





哀れ今や名も無き一人の男は、『かみさま』の掌で踊り、己が願いに食い殺されて、霧の中に消え行くさだめ





霧の街の名物である灯台が、再び解放されるのは一年後のこと





灯台から見下ろす街をよく知る人々は、口々にこう言ったそうだよ





『かつての蛍火はもっと美しかった』


霧の街の片隅で、少女は道化に仮面を手渡した。



はい。なおした


壊れた留め具は元あった通りに直っていた。道化はそれを受け取ると、仮面を再びつけ直す。



どうも。助かります


少女は笑みを浮かべる仮面を見上げる。



しっぱいした?





相変わらず手厳しい。少し手心を加えて頂けませんか





むり





でしょうね。いや、私が悪かったです。無理を言いました。申し訳無い


道化は仮面の額に手を添え、深く息を吐き出した。
道化は『霧の殺人鬼』の最期を見届け、灯台の下に横たわった彼の顔を見た。飛び降りる瞬間に見せたままの笑顔で、彼は息絶えていた。
依頼人は最後まで笑えなかった。だから少女は道化に問うた。



つらい?





いいえ。ただ、虚しいだけです


霧の街のあちこちに灯るあかりを目印に、道化は街路に戻る。その後ろを小走り気味に少女が続いた。
道化は後ろから来た少女の手を取り、顎に手を添え白い空を見上げる。



さて、次はどうしたものか。いつもならそろそろ……





お! 居た居た旦那!


騒々しい声が響く。噂をすれば、と道化が振り返れば、彼が想像した通りの男が手を振りながら駆け寄ってきた。
近場をふらっと出歩くにはあまりに重々しい重装備。彼が『霧の街』出身でない事は一目で分かる。他所の地域からやってきた『渡し人』。『霧の街』の住人達も彼の立場を理解しつつ、物珍しそうに眺めていた。



これはこれは蝙蝠さん。また貴方ですか





へへへ毎度。いやぁ、旦那あちこちフラフラし過ぎですからねぇ。若干自分が専属みたいになってるみたいで


蝙蝠と呼ばれた彼は、【郵便渡し人組合】の『手取り足取り』の構成員である。
主に手紙や荷物を各地に届ける役割を持ち、道化にも時折手紙、主に依頼書を配達している。『手取り足取り』は、各地域への配達の他に、点々と各地を移ろい歩く『渡し人』への配達も請け負っている。どうやって、所在が分かりづらい渡し人に荷物を届けるのか……それはこの世界における不思議のひとつにも数えられている。
そしてやはり彷徨う道化をぴたりと探し当てた、渡し人向け配達専門の配達員、通称『八方美人の蝙蝠』はへへへと笑って抱えた鞄から取り出した封筒を道化に差し出した。



はい。例の如くお手紙っすよ





いつもどうも。はて、今回は何処からの依頼ですかね


道化は受け取った封筒を早速開いて、中身を覗く。封筒の中には小さな掌大の『精霊時計』と、一枚の手紙が収められていた。



『雨の街』ですか。此処からそう遠くないですね


『雨の街』。雨の降り止まぬ『水源地』。『昼地』ながら常に曇天で薄暗い。街中に水路が走り、周囲の地域に水を供給する事を主な生業とする街である。雨が止まない気候を活かした特別な作物も名物だ。
そこから届いた依頼はどんなものなのか。道化は手紙に目を通す前に首を傾げた。



しかし、不思議ですね。雨の街から依頼とは





ふしぎ?


少女が聞き返し、道化は少女を見下ろした。



噂程度で聞いた話です。『雨の街には聖女さまが居る』。何でもどんな難病も、どんな悩みも立ち所に癒やしてしまう不思議な女性が居るとか





なら、せいじょさまに、いえばいいのに


少女の素直な感想に、道化も同調し頷いた。



ええ。相談なら聖女さまにすればいい。実際、あの街の人間は皆そうしてきた筈です


道化は手紙に視線を落とす。そして、自身が抱いた疑問の答えを理解した。
便利屋さんへ
何でも知っている情報屋さんに聞きました。
『笑顔』をお代にどんな願いでも叶えてくれると聞きました。
お願いします。ぼくのお願いを聞いて下さい。
聖女さまを生き返らせてください
簡単に書かれた歪な子供の字。
詳しい内容は書かれていないが、最後の一文で道化は雨の街で何を起こっているのかを察して、額に手を当てた。



……成る程。ところで蝙蝠さん。雨の街って今どういう状況ですか?





いつも以上にブルーっすね





でしょうね


蝙蝠は鞄から今度は一冊の手帳を取り出した。黒い皮の手帳を開き、蝙蝠はふんふんと鼻を鳴らした。



『雨の街の聖女さまが亡くなった』のは一週間前のこと。今でも街中の人間が嘆き悲しんでるっす





亡くなった、というのはご病気か何かですか





そこまでは


蝙蝠が苦笑し手帳を閉じた。
道化はふうと仮面の下で溜め息をつき、やれやれと首を横に振った。



お金はありませんよ





へへへ。参りやしたね。それじゃあ、情報交換でもいいっすよ





『何でも知っている情報屋』について、ですか?





全く、あの人のせいで商売あがったりなんですよ。『風の噂』本部も血眼で捜してるんすから





渡すほどの情報はありませんよ。あと、今教えて頂けないのなら、あなたに聞くより彼女に聞いた方が早い





それが困るんですよねぇ





ま、いっか! 次の配達があるんでこれで!


蝙蝠が一礼をして立ち去ると、道化は掌に乗せた『精霊時計』をまじまじと見つめた。針は十時の方向を指し止まっている。針の方向に視線を向けると、道化は更に視線の先に歩き出す。



さて、次は骨が折れそうです。『死者を生き返らせろ』、ですか。可能であればいいのですが





もうだいじょうぶ?





ええ。大丈夫です。ありがとう。心配してくれるんですか?





ううん





おおう……ですよね


落ち込む素振りを見せつつも、道化の声色が少し明るさを取り戻す。



『忘れるな、いつも身を屈めていては何も拾い上げられない』


道化は仮面の目元に手を添える。



まぁ、正直凹んでいるのは事実ですが、いつまでも落ち込んではいられません





私達には果たさねばならぬ目的があるのだから





さて、次の道化の目的地は雨の街





唯一の希望を失い、空と共に泣く街





聖女さまを生き返らせる、本当にそんな事が可能なのかな?





答えは『かみさま』と『何でも知っている女』のみぞ知る





勿論、『かみさま』はともかく、『何でも知っている女』はネタばらしなんて無粋な真似はしないけど





どうやら、道化と少女の後ろから、奇妙な足音が迫ってきているようだねぇ





『死と同じように避けられないものがある。それは生きることだ』





何てことない独り言だよ。気にしないでね





それでは皆様、ご機嫌よう


