暫くそんな時間が流れた後、やっと今気付いたように祈雨丸は『あぁ』と零す。



舞扇を在るべき場所に返さねば。あなたとの時間を過ごすのは、約束を果たしてからですね


と少し残念そうに微笑んだ。



!


その言葉に、緋奈子も緩んでいた顔を少しばかり緊張させる。



……うん





では、参りましょうか


と頷くと、一瞬ノイズに似た雨音がし、周辺の景色が一変した。
紅葉や空の月に変わりはないが、
その場所は、緋奈子の見知った朱華家の庭。



ご苦労


と祈雨丸が足元に声を掛けると、一匹のヤモリがちょろりと駆け抜けていった。



いずれ戻るものだと思って、待機させておいてよかった


などと呑気に話すが、この手の魔法を体感するのは、緋奈子ちゃんにとっても初めての事だろう。



(そしてこの場に誰かが居合わせたかはお任せします…!)





ほう では…


緋奈子は、突然変わった周囲の景色に目を白黒させている。



ま、魔法だ……!!ワープだ……!


どこか興奮のにじむ声で呟いているが、その予想もしていなかった景色の変化にめまいがしたのか、少しばかり足元がふらつく。
自分が駆け抜ける高速機動であれば慣れたものだが、こういった“移動”は経験がなかった。
思わず、つないでいた手に力が入って若干祈雨丸に体を預ける形になる。



お返事もらっていい感じにRPしたら…現れます!!





ふふw





大丈夫ですか?


ふらついた緋奈子に自分からも体を寄せ、支える。
倒れ込むことは免れるが、それはもう半ば抱きかかえる形になるほどに。



!!


その状態に気が付き、多少引いていた頬の赤が一瞬で戻ってきた。
そして思わず飛びのこうと体が動きかけるも、なんとかそれを自制したようで、
自分で体を起こす程度にとどめた。



あああありがと!!だいじょぶ!!





大丈夫なものですか、忍であるあなたがこのようになる程だったとは……失礼をいたしました。次からは宣告してから転移するよう気を付けます


……そう、心配をしているのだ。
決してその身を放したりはしないが。
多少他の理由があることも、否めなかったが。



ちょ、ちょっとびっくりした、だけ、だから……!


おろおろしながらも、なんとかそう答える。
手を放して離れようとはしない彼の様子に、またもや猛烈に照れながらも顔が若干緩んでいる。



(前だったら、大丈夫ってうちがいったら、『そうですか』って言って放してただろうな)


そんなこともちらりと思い、やはりどうにもうれしくなるのだ。
その時、背後から砂利を踏みしめる音がわずかに響いた。



緋奈姉さま……!


姿を見せたのは、朱華綾緋だった。
喜びと、驚きに目を見開いている。



それに……


と祈雨丸にも目を向ける。
なんとも複雑そうなまなざしだ。



おや、綾緋さん


とそちらに目を向け、歓迎とは掛け離れたその視線に、苦笑する。



……願われたとおりに、万事を果たしに参りました


では、その様子に、ふん、と鼻を鳴らした。



……以前とは多少姿が変わっているようだが……、そのいけ好かないすました顔といい、蔵満祈雨か


固い声で言いながらも、緋奈子をちらりと見て姉に怪我がない様子に少しばかり安堵をにじませる。



……話は聞こう。姉さまを無事に送り届けてくれたのは確かだからな。……だが、とりあえず、


淡々と落ち着いた様子でしゃべりながら、しかしすぐに顔をゆがませる。



姉さまから
は な れ ろ……!!





ええ、傷など付けるものですか


……どの口が、と一瞬我ながら突っ込みもしたが、



はなれる……


ちらりと緋奈子を見下ろし、シュンと浮かべる惜しみの表情。
それでも繋いでいた手は放すのだった。



かわいい





この蛇、分かりやすいぞ!


しゅんとした顔に弱い緋奈子。
うっ、と内心思いつつも、放された手を追うことはしない。
(て、手くらいいつでも繋げるし……!)と、声に出せはしないフォローを心の中で呟きつつ、妹に目を向ける。



……綾緋


なんというか、不機嫌ながらも元気な妹の姿に笑みをこぼす。



……


とりあえずは言った通り祈雨丸が手を放したので、厳しい顔をしつつも少し落ち着いた様子。
そして姉に名前を呼ばれ、表情を緩める。



姉さま、よかった……


そうした姉妹を眺め、一方の祈雨丸は何処か満足そうな表情を浮かべた。



仲良き事は美しいものです。ですが、いつまでも見守っているわけにはいきません


そう言って、綾緋に向き直り、そのシノビの目を見据えた。



祈雨昏水都早社宮司が問う。不知火、朱華家の当主と話したい。朱華綾緋、貴殿で宜しいか





!


雰囲気の変わったその様子に綾緋は一瞬目を見開き、しかし次の瞬間には、先ほどまで浮かべていた綾緋個人のものである祈雨丸に対する嫌悪の表情は消え失せた。
そして真っ直ぐにその瞳を見つめ返す。



いかにも。私が朱華家当主、朱華綾緋である


当主として、その前に立つ。
空気が張り詰めた。
…が、それは緊迫とはまた異なる静寂である。



まずは、不知火麾下であり、貴殿が姉君である朱華緋奈子。その身柄は確かに此処に届けた。且つ、今や一族の皆が認知しているであろう彼女の無実も、こうして白日の下となった





その幻術を仕掛けた外道の廻烏…かの闖入者が働いた狼藉も思い出したことであろう。それも、私が誅した





さて、ここまでの行い。願い乞われた身として、十分な仕事だと思うが如何か?


と穏やかに問う。



……


綾緋は静かにその言葉を聞き、ちらりと緋奈子をうかがう。
緋奈子は妹の、当主の視線に一つ頷いた。
彼の言葉は真実だ、という、それが証明だった。



……確かに。その言葉、誠と判じよう。見事な働きであった


そうして、彼が何を言わんとしているか、綾緋はよくわかっていた。
働きには見返りを、それがシノビの常識だ。



朱華が出せる見返りは多くはない。それでも、確かにその労に報いる礼はさせていただこう





要りません


間髪入れずに答えた。



此度の一件、私は人間に『助けてくれ』と願われた。加えて、私も己の友を助けたかった……。それは、この祈雨にとっては当然の習わし


さて、これを説明するのは何度目か。
と、かつて似たような説明をした緋奈子に一瞬目を向けた。



……綾緋殿、今貴殿の目の前にいるものは、忍にあらず。穏忍にあらず。……我は白蛇、雨の龍です


唐突に告げるが、思い返せば、この男の人ならざる挙動を綾緋は覚えている。
てっきり謝礼を要求されているものとばかり思っていた綾緋は、まずその“要らぬ”という言葉に面食らっていた。
そして続く言葉に、再び息をのむ。
しかし、驚愕を覚えつつもどこか納得している自分がいた。



……なるほど


何を馬鹿な、と一笑に付さなかったのはそれが理由だった。



ええ、ゆえに祈雨は忍や妖魔らとは異なる術を操ります。貴殿らが呑まれた箝口、そして改竄の呪いに対し、対抗し得たのも私が……その世界に属する龍であったから





……さて、斯く斯く云々、ここで朱華の舞扇を返さねばなりませんが……しかし、問題がひとつ発生いたしました


そう言って、空中から、回収した禁書を出現させる。



この舞扇は、我々の世界では“回収すべき災厄”と認定されております。ゆえに、本来であればこのまま貴殿に返すわけにはいかない。……これは、いつか世界を滅ぼしかねぬ呪具なのだ


静かに、慎重に、語り掛ける。



……!


さっと顔をこわばらせる。



……それは、朱華の宝だ。受け継ぐべきものであり……、朱華の、守りでもある


曰く、これが朱華にとって一種の守りの力を持っている、と伝えられている。
断片的にではあるが、綾緋はそう語った。



故に、……安易に手放すことはできない。貴殿の働きには感謝している。しかし、それとこれとは話が別だ


きっぱりと言う。
武器を取り出す様子もなければ、殺気が漏れることもない。
それでもその言葉の裏には、いざとなれば武力を用いることも辞さない響きがあった。



守り……


それは、確かに断片的には嘘ではないのだ。
祈雨丸は理解している。



分かっている。私も、人間の営みを壊す事、そして緋奈子を悲しませることは本意ではない。……そこでだ





ここからは、願いに応える龍神ではなく、宝の番人である龍種として、契約を持ちかける


姿かたちに変化はない。
が、祈雨丸の言葉に宿る何かが変わった。
棘ではないが、単純な優しさでもない。



朱華の舞扇は、然るべき朱華の蔵へと帰そう。だが、その場所、この朱華の所有する全ての財を、我が管轄下とする。我が名のもとにあれば、これを回収せんと命じる者らも奪還を強いることは出来ぬ。……“朱華の舞扇は、朱華の手に在り続ける”





本意ではないとはいえ、人間の一族と、世界の命運……我らの組織が、どちらを天秤に取るかなど、貴殿でも理解できよう





…………


厳しい顔をして、それを聞いている。
しばらく沈黙が流れたが、やがて詰めていた息を吐いた。



……確かに





自らの力を、矜持ひとつで見誤ることはしない。自らの力量を知るのもまた力だ。……貴殿の組織とやらが、舞扇を奪わんとしてきたのならば、それを損害なく留めることは難しいのだろう


龍神の属する組織、と聞いて、安易にそれに対抗できると大口をたたく気はなかった。



いいだろう。あの蔵にその舞扇以上の宝はない。ここから持ち去らぬと言うのなら、貴殿の管轄下に置くこと、応諾しよう


そう答えた後、少しばかり疑念を目に浮かべる。



……だが、なぜそこまで?貴殿に何の得がある





得、と問われますか


不意打ちを受けたかのように、祈雨丸は復唱した。



先に申しあげた通り、人の営みを崩すことは本意ではない。それに……





愛しき人に、『朱華綾緋に、最善の結末を』と、願われたものですから





!!


目を見開き、祈雨丸の隣で静かにやり取りを聞いていた姉に目を向けた。
この男にそのようなことを願う存在など、心当たりはそこしかなかったからだ。
緋奈子はその視線を受けて、少し気恥しそうに笑顔を浮かべた。



……っ


一瞬、まだ甘えたがりの妹の表情に戻る。
顔を歪めて、嬉しそうな、それでいて泣きそうな、申し訳なさそうな……、それらすべてを俯き、飲み込み、そして小さく



そうか


と呟いた。
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NEO HIMEISM 様
https://neo-himeism.net/
