魑魅魍魎、八百万の妖怪と精霊が勢力を二分する山――カクヨノ山。
人里離れた山の東側には精霊が、西側には妖怪が棲みついているといわれている。
カクヨノ山の麓に住む村人たちは、精霊や妖怪が悪さをしに山を下りて来ないように、朝夕とカクヨノ山に祈ることで、天秤にかけたような平穏が保たれていた。
魑魅魍魎、八百万の妖怪と精霊が勢力を二分する山――カクヨノ山。
人里離れた山の東側には精霊が、西側には妖怪が棲みついているといわれている。
カクヨノ山の麓に住む村人たちは、精霊や妖怪が悪さをしに山を下りて来ないように、朝夕とカクヨノ山に祈ることで、天秤にかけたような平穏が保たれていた。
夏も盛り始めの時期。
朝早くから起き出した村人たちはお祈りを終え、それぞれ仕事にとりかかろうと、今日一日の準備に手をつけ始めていた。。
すると、村の子供の一人が自分の親の元へと駆け寄る。



父ちゃん、父ちゃん。





ん?どうした、坊。今朝はカクヨノ山にしっかりと頭を下げたのか。





ねえ、父ちゃん。妖怪や精霊って本当にいるの?大人はみんな山に祈るけど、おらは一度も見たことがないよ。





なに?馬鹿を言うんじゃねえ。





いてっ!





いいか、坊に昔話をしてやろう。


そう言って、父親はとある言い伝えを語り始めた。



カクヨノ山の裾野に、水が枯れた沼があるのは知っているな。





危ないから行くなって言われている沼のこと?





そうだ。“蛇神沼”といって、坊が生まれる前は水の澄んだ綺麗な沼だったんだが……





ある日、山の西側から山のように大きな化け猫が現れて、沼の神様を喰っちまったんだ。





ひぇ。
神様が、食べられたの……?





蛇神様は水の神様だったから村はしばらく日照りで水不足になったが、どうにか化け猫はこの村の人間は襲わず西に帰って行ったんだ……。





わかるか?村が助かったのは、こうして皆がカクヨノ山に祈っていたおかげだ。わかったら、坊もしっかり朝夕は山に祈るんだぞ。





うん、わかった……。


怯えを見せる子どもに父親は興が乗ってきたのか、更に話を続ける。



カクヨノ山の精霊も妖怪も、恐ろしい奴からちょいと悪戯好きな奴までいる。





その昔には物の怪に山に連れて行かれた子どもが、青年になるまで帰って来なかったって噂もある。





この間も馬屋のねねが神隠しにあっただろう?





あわわ。





で、でも、ねねは帰って来たし、知らない子と遊んでいただけだって……。





ねねはきっとカクヨノ山への祈りを毎日していたから無事だったんだ。





さて、坊はどうだ……?
特に山の西に棲む鬼は怖えぞ。坊なんか攫われたら一口で丸のみだ。





わかった!おら、わかったよう!





わははは!
……やれやれ、脅かし過ぎたか。それじゃあ俺も畑の様子を見てくるかな。


昔話に恐れをなした幼い息子が礼をして、一目散に遠くにかけて行く姿を見て、男もカクヨノ山に礼を捧げると、畑仕事へと出かけて行った。
父親の話が怖くなって逃げてきた坊は、村の皆が共同で使っている井戸の場所までやって来ていた。
いつもは女たちが集まって井戸端会議に賑やかな花を咲かせる場だが、今朝は女たちも洗濯を終えていて、井戸の周りには坊の他に人がいない。
一人だということを知ると、父親が話していた恐ろしい話を思い出して、急に体がぶるりと震える。



父ちゃんはすぐおらのことを脅かすんだ……。





でも、今日はひとりで遊ぶのはやめておこうかな。ねねはしばらくお外に出ちゃだめだって言ってたし……。





それだったら、お姉ちゃんと一緒に遊ぼうか。


いつも一緒に遊んでいたねねも居なくて、急に寂しくなった坊が呟けば、返事をするように、後ろから声をかけられた。
その声に驚いて坊が振り返ると、村の中では顔を見たことがない女の子が、いつの間にか井戸の淵に座っていた。



だれ?どこから来たの?





あっちの方。


坊が尋ねると、赤い着物を着た女の子はカクヨノ山の方を指さす。その声音と動きはカラクリのように無機質だった。
実際、山を越えれば他にも村はあったが――。



へえ。





ねえ、おらと一緒に遊んでくれるの?





うん。お姉ちゃん、小さい子と一緒に遊ぶの、好き。





ほんとうに?
やったあ!おらも遊んでもらえるのは好き。





じゃあ、一緒に行こう。ちょうど山に、美味しいヤマモモがいっぱい生っているよ。





え、山?





ううん……山は入っちゃ駄目だって父ちゃんが言ってたから……。


警戒心もなく素直に喜んだ坊だったが、女の子の手がもう一度カクヨノ山を指したのには惑った。山には勝手に入ってはいけないという決まりがあったからだ。
けれど、抑揚なく淡々とした口調だけど、女の子の口元は優しく微笑んでいた。



二人でなら、大丈夫。お姉ちゃんが一緒だから、怒られないよ。





お姉ちゃんがサイゴまで面倒を見てあげる。





そう?





……そっかあ!そうだよね、一人じゃないから大丈夫だよね!





うんうん。
そうそう。


父親との約束を思い出して暫く考え込んでいた坊だったが、その言葉に納得すると、嬉しそうにはしゃいで女の子の元へと駆け寄った。



じゃあ早く行こう。
ヤマモモ!美味しいヤマモモ!





ふふっ。お姉ちゃんが、美味しいの、食べさせてあげる。





ふふふ……くひひっ。


女の子は差し出してきた坊の手をしっかりと握って、案内しようと引いてくれる。
そうして幼子二人は、仲良く手をつないでカクヨノ山へと姿を消していった――。
此処はカクヨノ山の頂上にある憩いの場。
西と東。妖怪と精霊の棲み処を分岐する場所。
分岐の真中には樹齢千年を超える大樹が聳え立ち、中立の立場を守っている。
その大樹の根元のそばには、山を越えようとやって来た者が足を休められるように小さな切り株があって、いまその上には、幼い娘が腰を掛けていた。



……むすっ。


人間の娘ではない。その証拠に娘の額からは、前髪を割って短い二本角が生えていた。鬼の娘だ。
幼い鬼の娘の顔は一見すると無表情だが、実は不貞腐れている。額に汗が浮かぶほどの暑さと、ジワジワと止まない蝉の鳴き声に呆れて眉根を寄せていると思われたが――。
地面に届かない足を苛立ち気にぶらぶらとさせていると、草履を履いたつま先に小石が当たった。
ガサガサ…
蹴飛ばした小石が茂みに飛び込んで、ガサガサと葉が揺れる。
すると中から一匹の大きなカブト虫が顔を出した。
夏の山では珍しくはない、風物詩であるカブト虫が地を這って近づいてくる。
そして、切り株の手前まで来ると、まっすぐに生えた一本角をくっと持ち上げて鬼の娘を見上げた。



おうおう、蛟鬼。
なんだ、どうした時化た面をして。





あ、オヤブン……。


奇妙なことにカブト虫は、表情の少ない鬼の娘の顔から不貞腐れた感情を一目で見抜くと、どうしたのかと声をかけた。
そこでようやく小さな存在に気づいた鬼の娘はカブト虫を見た。
夏の山では当たり前に姿を見かけるカブト虫だが、オヤブンと呼ばれるだけあって、通常の個体より一回りも二回りも大きく、角もより立派だ。黒光りする頭には、喧嘩印の向こう傷が勇ましく刻まれている。
しかし、オヤブンの通称はなにも見た目だけを表しているのではない。
それは、彼が山の東側からやって来たことと関係がある。
実はこのカブト虫のオヤブンこそが、カクヨノ山の勢力を二分する、精霊たちの統領なのだ。
本当はもっと立派な名前を持っているのだが、彼が纏める精霊たちがそう呼んでいるので、蛟鬼もそれに倣っていた。
オヤブンは大樹の凸凹した木肌によじ登ると、蛟鬼の顔を覗き込んで、またしても一瞬で不貞腐れている理由を見抜いて言う。



ははあん。
蛟鬼、さてはおめえ、また鬼王丸……師匠と喧嘩したな。





ギクっ……。





図星だろう。それで不貞腐れているなら、おめえ、また人里に下りて子どもを攫ってきて師匠に怒られたんだな。





ギクギクッ。


ずけずけとした物言いで言い当てられた蛟鬼は分かりやすく口から零す。



攫ってない。来るって聞いたらついてきただけ。……ちゃんとお世話するって言ったのに、師匠はいつも、





もといたところに返してこい(重低音ボイス)





って言う……。


無駄に似ている物真似を披露しながら蛟鬼は愚痴を垂れる。



世話っておめえ……人間の童はペットじゃねえぞ。





ぺっと……?





外海の言葉さ。人間が番犬飼うみたいなもんよ。





獣避けのためじゃない。私が愛でるために飼う。





愛でるってもよお……。





幼い子は愛い。小さく頼りが無いところが愛い。お世話したい。ご飯食べさせて、おめかしさせて、遊んで愛でたい。


蛟鬼はそう、うっとりとして言うものだった。



小さいっつっても、自分だってまだまだ幼い子鬼だろうが。





歳は関係ない。





……でも、人の子はすぐに大きくなる。大きくなったら可愛げがなくなる。つまらない。





だから、大きくなったら村にちゃんと帰すのに、師匠はなぜか怒る……。
だから隠すの大変。





……まさかよお、前々から下の村が神隠しだなんだって騒いでるのはもしかして……。


オヤブンが不穏な空気を感じ取った時だった。
ガサガサ……
近くの茂みがまた音を立てた。それから生き物の気配がする。
オヤブンが来た時よりももっと大きく木の葉を、枝を揺れ動かして現れたのは――



にゃーん。





なんでえ、猫かい。





っ!?


ただの野良猫が顔を出したのに、反射的に身構えてしまったオヤブンはすかしをくらう。
――だが、構えていたのはオヤブンだけではない。



なぁん。


ガサガサ……
野良猫は場を驚かせてしまったことも気にした様子もなく、呑気に尻尾を揺らめかせながら、別の茂みの向こう側へと潜り込んで行ってしまった。



……。


その間、切り株の上、蛟鬼は息を殺して微動だにしなかった。
その様子にオヤブンが気づいた。



なんでえ蛟鬼、まだ猫が怖いのか?





べつに……。





強がるんじゃねえよ、顔が真っ青じゃねえか。あれはただの野良猫だ。





それに、もう怖がる必要はねえだろう。お前には――


すると野良猫が消えて行った茂みが再び揺れ動いた。
けれど、今度の正体は猫のような獣ではない。
とても騒がしい声が割り込んできた。



どいた、どいたー!


まるでのれんをくぐるように葉を捲って、小さい物の怪が慌ただしく走り出てきた。
古めかしい漆塗りの椀に、椎茸の軸のような体が生えている。
バランスが悪いと頭の重さでひっくり返ってしまいそうな小さな物の怪は、止まり方も忘れて円を描いてその場で走り回っていた。



椀坊じゃねえか。どうした、鬼王丸の使いか?





ゲエ!?東の統領!





……っとと、今日は陣地争いの祭りじゃなかった。


見覚えのある顔にオヤブンが声をかければ、椀坊は飛び上がりながらも駆け回る。
……実を言うと、足を止めた途端に頭の重さでひっくり返ってしまうので、止まれないのだ。
蛟鬼もオヤブンもそれを知っていたから、落ち着けなどと声をかけはしない。



あっ蛟鬼!こんなところにいたな!御屋形様がお探しだぞ!





ひぇっ


オヤブンと一緒にいる蛟鬼のことを見つけた椀坊の駆ける速度が増す。



ほらよ、蛟鬼。師匠がお前のこと探してるってさ。





喧嘩なんだ言っても、結局、鬼王丸はお前には甘いんだろうよ。





……ん?どうした、蛟鬼?





……ダラダラ。


オヤブンは微笑ましく思っていたが、どうして椀坊がこの場に現れたのか悟った蛟鬼は冷や汗だらけだった。
――御屋形様――鬼王丸。
カクヨノ山に棲む妖怪や精霊で、その名を知らない者はいない。
それはカクヨノ山の西側、荒くれ者が多い妖怪たちを、その手腕でまとめ上げる大鬼だ。
恐ろしく、強く、誰も逆らえない……という意味で。
ただ根っからの出不精で、大抵は下級の物の怪を使いっ走りにして自分は表に出てこない。
それが蛟鬼の師匠だった。



み~づ~き~


椀坊が怖い顔をして、距離を詰めてくる。



御屋形様からの直々の命だから、今日は堂々と苛めてやれるぞ。オイラは前々からお前のことが気にくわないんだ。





覚悟しろい!





暴力反対っ


椀坊の体当たりを避けた蛟鬼は、オヤブンが張りつく大樹の後ろへと身を隠す。
東の大将を壁にされては、勅命を受けた椀坊も近づけないでいた。



卑怯だぞ!大人しく出てこい!





おうおう、穏やかじゃねえなおい。





さては蛟鬼……お前、童攫いの他に何かやらかしているな?





オヤブンさっきから鋭い。鬼の千里眼でも持っているの?





だとしたら正直に吐くか?





……しょう…の





おん?





……怒られた腹いせに、師匠が肴にとっておいていた、たこわさ全部食べた。





……。





御屋形様が三か月ぶりに山を下りて手に入れた、とっておきの肴、壺いっぱいあったのを一人で食っちまったんだぞ。





そりゃ御屋形様もお怒りさあ。





美味しかった。満足。





……はぁ。


呆れと名がついた空気がため息となってオヤブンの口から吐き出された。
あえて話を聞いてしまった後悔と損も少し混ざっていた。
蛟鬼の盾となってくれていたオヤブンが、あっさりと大樹から飛び立ってしまう。



あ、行かないで、鉄壁の防御。





オレの鎧はおめえの盾じゃねえ。しっかり、こってり、絞られていろ。





やだやだ。椀坊に絞られても、家に帰ったらどうせ師匠に雑巾にされる。





隙あり!とりゃっ!





きゃんっ


オヤブンを追いかけて、ついうっかり大樹の後ろから出てきたところを、椀坊が体当たりをかましてきた。
地面の上に転んで背を丸めた蛟鬼を、上に乗った椀坊がぴょんぴょんと跳ねて踏みつけまくる。



このやろ、このやろっ、御屋形様を怒らせる生意気な奴め。反省しろい!





うわぁん、暴力反対。椀坊なんか可愛くない。燃やしてやる。





鬼火も満足に出せない子鬼のくせに、何が御屋形様の弟子だい。このやろっ。





うわあん。


鬼でありながら下級の物の怪に苛められながら成敗される蛟鬼。
彼女の泣き声を背に聞きながら、東方のオヤブンは根城へと帰って行く。



鬼王丸よう……





やっぱりお前にゃ、餓鬼の世話は無理だって……。


――魑魅魍魎、八百万。
西には精霊のカブト虫。東には妖怪の大鬼がそれぞれ勢力を率いて統治されるカクヨノ山。
いずれ次代を継ぐのか(?)少女の子鬼。
愛いは年下、好みは酒の肴。
これから語られるは、そんな鬼娘の物語――
つづく
