……こそっ。
わたしはドアを半開きにして、事務所の中をのぞきみています。



……はぅ、い、いました……


視線の先には、メモリアの千乃さんがいます。あまりお話したことはありません。
大体千乃さんは事務所のソファーで寝ています。すごいです。どうして、ここまでだらだらとできるのでしょうか。すごいです。
この人も……わたしの師匠になってくれる人かもしれない。
わたしは、最近思っています。
わたしはいつも頑張ったところで空回りばかり……。
一方で、千乃さんはいつもだらだらしているのに、素晴らしい結果を出しています。
わたしは、ここで千乃さんを見習う必要があります!
『頑張ることをやめてみる努力』が必要なんです。
だらけた人間になるために。ぜひ、千乃さんに弟子入りをしたいです!



くたくた……


寝言でくたくた言っています。超なまけています。
やはり、わたしが弟子入りすべきなのは千乃さんです……!
わたしは事務所の中に忍び足で入っていきます。
そばに立って、こっそり観察します。



八葉ちゃん、千乃に何か用かな?





ふわぁああ! ね、寝てませんでしたぁ……!


目をつむったままなのに、なぜわたしだとバレたのでしょうか!



ふっふっふー、千乃はね、足音で誰が誰だか区別がつくんだよ?





す、すごすぎます……!


目をこすりこすり、あくびをしながら千乃さんが体を起こします。
わたしは千乃さんに向けて、がばっと頭を下げました。



ち、ち、千乃さぁん! わたしを弟子にしてくださいっ!





弟子? 千乃が師匠になるのかなぁ? なんでだろ?





わ、わたし、ずっと頑張って、努力することが大好きで!





でもでも、力が入りすぎちゃって、よく間違えちゃうんです……





だからだからあのっ、だらけた人間になってみようと! 千乃さんのだらけ方をおそばで勉強させてほしいんですっ





えへへへ、まぁね? 千乃はだらけるスペシャリストだからね?





八葉ちゃんにいっぱい教えてあげるね


千乃さんはとっても得意げな顔です。
おいでおいで~、と、手招きをしてくれました。



あ、ありがとうございますぅ!


今までの弟子入りで、一番あっさりと許されました……!
わたしは千乃さんと並んでソファーに座ります。
千乃さんはスケッチブックを取り出して、おもむろに魚の絵を描きはじめました。



八葉ちゃんはね、マグロだと思うんだぁ





マグロですか……!?


もしかして、この魚の絵は私なのでしょうか!?



うん。常に動いてないと死んじゃうの





だからね、冷凍マグロになってみよ?





冷凍マグロに、なる……!?


どうしよう、全然意味が分かりません!
千乃さんはにこにこ顔です。頼もしいです。



うん。千乃が数えててあげるからね





まずは三分、冷凍マグロの気持ちになってね?





は、はい! 分かりました!





じゃあスタート~


意味が分からないままでしたが、わたしはぎゅっと目をつむります。
冷凍マグロの気持ち、冷凍マグロの気持ち……。
きっと動いてはいけないのだと思います。
頭の中で数えながら、想像以上にじっとしているのがつらいものだと知りました。
両足がムズムズしてきてしまいます。かかとを鳴らしてしまいそうになります。
は、は、走りたいです……っ



がんばりました……!


三分経ったので、目を開けました。



…………ZZZ


千乃さんは寝ていました!
三分数えているはずだったのに、こっくりこっくりと船をこいでいます!



す、すごいです。これが真のだらけた人間……!


わたしはまだまだ修行が足りないと知りました。
・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。



ハッ! な、なんでわたしはこんなところにいるのでしょうか!


朝。
いつの間にかわたしは、いつもの走り込みコースに立っていました。
無意識でした。習慣とはおそろしいものです……。



八葉ちゃん、おはよぅ~くたくた





千乃さん!? な、なんでこんなところに!?





プロデューサーに教えてもらったんだ。八葉ちゃん、朝、いつもこのあたりを走ってるって





頑張りすぎちゃう八葉ちゃんをね、監視しにきたんだよ?





あわわ、ありがとうございます、千乃さん!


やはり千乃さんは頼もしいです。



わたしもうちょっとのところで、また頑張ってしまうところでした……





うんうん。千乃のおかげだね?





じゃあベンチに座ろ?


千乃さんと並んで、ベンチに座ります。



いい天気だねぇ~





はいっ、太陽がまぶしいです!





きょ、今日もわたしは冷凍マグロの気分になるべきでしょうか!


両足をウズウズさせながら、わたしは聞いてみます。
走り込みロードを目の前にしていると、欲望をおさえるのに必死です……!



ううん、こういう時はネコの気分になるんだよ?





ネコ、ですか!





千乃が特別にひざまくらしてあげるから、一緒にひなたぼっこしよ?





はわわわわ、ひざまくら





おいでおいで、八葉ちゃん





……はいっ


き、緊張しますが、千乃さんの膝の上にごろんと頭をのせてみます。
やわらかくて、気持ち良いです。
ぽかぽかしていて、気持ちよくて、うとうとしてきます。
両足のウズウズも止まってきました。
ああ、これがネコの気持ちというものなんですね……。



千乃さんっ、わたしも真のだらけた人間に近づけた気がします!


嬉しくなって、顔を上げて千乃さんに言ってみました。
衝撃を受けました。



……………ZZZ





す、すごい! ひざまくらしている方が寝てしまっています!





わ、わたしなんてまだまだです……! うわぁあああん!


わたしは自分が恥ずかしくて、その場から逃げ出しました。
もっともっと、だらけた人間になる修行をしなくては。
・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
数日たって、わたしはよろよろとした足取りで事務所にやってきました。



おはようございます……


真のだらけた人間になる為に、ずっとずっと走り込みをガマンしてきました。
日々、走りたいウズウズをガマンして、がんばっておふとんに横になり続けました。
なぜか目の下にくまができました。
冷凍マグロとネコが、頭の中をぐるぐる回り続けました。



八葉ちゃん、おはよう~くたくた





千乃さん! おはようございます!





わ、わ、わたしすっごくすっごく頑張っています!





んん? 何をかなぁ?


千乃さんはお絵かきをしながら、わたしを見てきます。



走り込みもせず! おふとんで寝てばかりでいる人間になっています!





冷凍マグロの気持ちも、ネコの気持ちも、いっしょうけんめい考えています





わたし、少しでも千乃さんに近づけたでしょうか……ッ!?





…………


千乃さんは、ぼんやりとした眼でわたしを見てきます。



ごめんね? それってなんの話だったかな?





…………!


衝撃を受けました。
わたしと師弟になったことすら、もう忘れてしまっています!
すごすぎます、これが真のだらけた人間……!



わぁあああん、わたしには到達できそうにありません!


わたしは事務所を出て、外を駆け出しました。
走ったら、すごく気分が爽快になりました。

次は空子に弟子入り待った無しか?