彼は言った。
彼は言った。



雨と水ってよく綺麗だと表現されるけど、むしろ汚くないか? むしろ、純水の方が綺麗なんじゃないか?


……と。
彼のこの持論は、今に始まったことじゃない。むしろ、これしか言っていないのではないかと言う程、この話題を振ってくる。
そして、私はこの問いに決まってこう尋ねる。



どうして?





今降っている雨。これには沢山の成分が混ざっているし、涙だってそうだ。そもそも、涙は心の雨とよく例えられるが、実際に涙が降ってきたらどうする? 塩味だし、汗のような体内の液体と混ざっているかもしれない。そんな雨、僕は雨以上に耐えられないな





潔癖症だものね





そうか?





潔癖症なのよ、貴方は


今までは、だいたいここらへんでこの会話を終わらせるんだけど、これじゃあこの先ずっと変わらないと思った。彼の価値観も、私との関係も。
だから、彼に少しいじわるを言ってみた。



そんなに水が好きなら、浴びてくれば? 滝にでも


そう言ったら彼は黙ってしまうだろう。そう思って言ってみたのに、彼はその無機質な表情で一言、「ほぅ」と呟いた。



今度やってみるよ





え? 滝よ? 危ないわよ?


そう言ったけど、彼の耳には届いていなかったのか、それとも知っていて聞かなかったのか。私の言葉を無視して、



じゃあ、また今度


とだけ言い残し、私の前から去っていった。
次あった時、まず彼の姿に驚いた。なんせ、真っ白な着物を、ずぶ濡れにしてやって来たのだから。



本当に濡れてきたの?





ああ、そしたらどうしてもこの服を着てくれと言われてね





それで、どうだったの?





なんか、勢いが凄くて、綺麗と感じる余裕はなかったよ





じゃあ、今度は純水の水でも降らせてみる? ほら、PV撮影とかでホースの先を潰してやっていたでしょう?





君、見た目に似合わず物知りだな





もう! それどういう意味!?





純水を使った人口雨……か。何だか勿体ないな





うん、私もそう思う





でも、結果として、雨や涙より、水の方が綺麗だと分かったよ……だけど





どうして、雨や涙は水よりも美しさの印象が付いているのだろうか


彼はしゃがみ込み、その場で頭を抱え始めた。そんな悲壮感漂う彼に、私は触れることもせず、ただ見つめる。



答えを教えてあげる





本当に!?


私の言葉に、彼は子供のように単純に起き上がった。
本当は答えなんてない質問なのだろうけれど、私なりに答えてみようと思う。



雨や涙には、感情が混じっているからなんじゃないのかな





感情?





雨は冷たいでしょう? だから、みんなの切なくて、悲しみに暮れた、冷たい感情の生まれ変わり。
涙は暖かいから、みんなの誰かを思う、暖かい感情の生まれ変わりなんだと思うの





……感情、か


呟いた彼の目は、感情の起伏など感じられない、いつもの無機質な目だった。まるで、ぬくもりを感じたことがない。そんな様子だった。
この顔を、そして彼のこの問いを、一体何度見て聞いてきたことだろうか。それがあまりにも切なく、私はこの目から涙を零していた。



……それ、涙なの?





うん





……綺麗だね、まるで真珠のようだ





ええ、特別な真珠だもの。飲んでみる?





いや、人の涙を飲むのは流石に……





良いから飲んでみて。お薬になるはずよ





……お薬? そんなに効能あるのか?


彼の問いに、私は頷いた。
半信半疑でいた彼だが、やがて意を決したように私の涙を飲みこんだ。その直後だった。



ぐっ!


彼は頭を抱えて狼狽した。
人魚の涙は、特殊なもの。時にその宝石がお金と取引されたり、アクセサリーに変わったり、はたまた、万病にも効く薬にも変わったり。
そして時にその薬は、長年隠してきたトラウマを呼び起こすものでもある。



……そうか、里子(さとこ)はもう……いないのか


彼には、以前恋人がいた。名前は里子。
デートをしていたこの日は、ざあざあと雨が降っていた。
ありふれたデパートでのデート中、彼が少し目を離した隙に、里子とはぐれ、二人は離れ離れに。
二人がお互いを求めて探しあっていた最中のことだった。
彼女は、トラックに轢(ひ)かれて亡くなってしまったのだ。
お互い、まだ二十歳だった。二十歳にして、彼女は亡くなり、彼は彼女を失くしてしまった。



あの時、貴方はたくさん泣いたでしょう? 愛する誰かを思って





ああ……今にも泣きそうだよ





それが可哀想で、私もつい貴方の記憶消しを手伝ってしまった。けれど、このままじゃいけないのよ





どうして?





貴方が変わってしまってから、貴方を思って泣いてくれた人がたくさんいたはずよ。お母さんだって、貴方のことを信頼している、あの人だって





あの人……?





……タツキくん





涙子(るいこ)……お前、どうして此処に?





どうしても何も、心配だからに決まってるじゃない……。最近の貴方、里子さんを失ってから空っぽになっちゃったんだから





涙子……余計な心配させて、すまない





余計なんかじゃないよ。だって好きなんだから





……





分かってる。だから、里子の傷が癒えるまで私、ずっと待ってるから





……帰ろう? お家に





……うん





それじゃあ君、僕はそろそろ……





あれ? あの子は……





何してるの? 早く帰ろう?





う、うん。分かったよ





また明日来れば良いか


彼と再会した時は、本当に運命を感じた。
だから、彼の記憶から過去の私を消し去れば、きっと生まれ変わったこの私を愛してもらえると思ってた。
でも、彼はずっと私が亡くなってしまったショックから立ち直ることが出来ていなかった。だから、あの日の雨と、自分の涙を汚いって、何度も言っていたんだ。
だったら、いっそ過去のトラウマと向き合わせて、雨や涙の良さを伝えられたなら。私の役割はもう終わりだろう。
何より、人間と人魚の恋、なんて淡い妄想をしたことがいけなかったのだ。
さよなら恋人。いつかあなたに、綺麗で優しい雨と涙が降り注ぎますように。
――とある人魚は、人目を避けるかのように、深い海の底へと潜り込んでいった。
