とある週末の事。
待ちかねていたお気に入りの幼子が異世界エリュセードに戻ってきた。
というわけで、最初は内心大喜びでパンケーキを与え始めた眼鏡の王宮医師、だったのだが……。



もぐもぐ……。





……。





もぐもぐ……。





…………。


とある週末の事。
待ちかねていたお気に入りの幼子が異世界エリュセードに戻ってきた。
というわけで、最初は内心大喜びでパンケーキを与え始めた眼鏡の王宮医師、だったのだが……。



ユキの奴、さっきから俺の顔ばかり見ているな……。それも、……物凄く神妙な顔で。


そう……、幼子こと王兄姫殿下・幸希(ゆき)は、ルイヴェルの顔に何やら思うところありの様子でじっと見つめ続けてくるのだ。
……かれこれ、十分以上も。



ユキ……、何を考えている?





もぐもぐもぐ……。





……ヒゲ。





……なんだと?





おヒゲ!!





……ヒゲ?





うん!!ルイおにいちゃんのおヒゲはどこにあるのかな~って、ユキ、それを探してたの!





はぁ……。そんな事か。





ユキね、今までルイおにいちゃんのおヒゲ見た事ないの~。ね? ルイおにいちゃんのおヒゲどこ~?おヒゲ出して出して~♪


いまだかつて、ヒゲを出せなどと言われた事は一度もなかったからだろう。
突然の珍要求にルイヴェルは視線を彷徨わせ、困惑げに眉を寄せた。



出せと言われてもな……。生憎とお前に見せられるヒゲは皆無だ。諦めろ。





……お~ヒ~ゲ~。





ないものは、ない。





おヒゲ!!おヒゲ!!おヒゲ!!おヒゲ!!





ない。


ヒゲを生やす目的がない限り、大抵は朝起きてすぐに剃ってしまうものだろう。
大体、何故急にヒゲなどを見たいと言い出したのか……。向こうの世界での事を知らないルイヴェルにとっては、ユキの心の内がまるで読めない。



うぅ~、おヒゲ、おヒゲ~。





ヒゲなど見てどうする?モサモサしているか、ジョリジョリしているだけのものだぞ。





あのね、あのねっ!!ユキの近所に引っ越してきたおじちゃんがねっ、すっごくもふもふなの~!!





……おじちゃん?





うん!!おじちゃんはね~、すっごく素敵なおヒゲを持ってるの~。ユキ、いっぱい触らせて貰ってるんだよ~♪





一度だけか?





えっとね~、最近は毎日、かなぁ。おじちゃん優しいから、いっぱい触らせてくれるの~♪





……まさか、一人でそのヒゲ男の許に通っているとは、言わないな?





……ん~とねぇ。





お友達のほのかちゃんと一緒だよ~。おじちゃんの家に行くとね~、おじちゃんの奥さんが美味しいお菓子をくれるの~♪





……ふぅ。ならいい。





ルイおにいちゃん、どうしたの~?なんだか、すっごくほっとしてるみたい。





当たり前だろうが……。幼女趣味のド変態な不審者だった場合を考えた俺の気持ちも少しは考えろ……。まぁ、子供には無理な話だろうが。





ルイおにいちゃ~ん?





……いいか?ユキ。相手が優しいからといって、誰彼懐くのはやめろ。それと、外で誰か見知らぬ者が接触してくる事があれば、ユーディス様にその都度報告しろ。





お父さんに?





そうだ。ユーディス様がその相手の事を知り、許しを出したのであれば、近づいてもいい。わかったか?


向かいの席に座っているユキを抱き上げ、自分の膝の上に乗せて顔を寄せたルイヴェル。
その言葉の意味をちゃんとわかっているのかは不安なところだが、幼子は元気の良い声で「は~い!」と返事を返してくる。



ユーディス様がユキに迫る危険を見逃すとは思えないが、……はぁ、一応後で話をしておくか。


ウォルヴァンシア王国王兄、ユーディス。
ユキの住まう異世界に婿入りした王兄殿下は、現在妻である夏葉(なつは)と共にデートへと繰り出している。恐らく帰りは夜になる事だろう。



ねぇ、ルイおにいちゃ~ん。おヒゲって、いつ生えるの~?今はなくても、生えるんだよね~?おじちゃんが言ってたよ~、男の人は絶対おヒゲが生えるんだって♪





言っておくが、ヒゲは生やし続けなければもっさりとはならないんだぞ?





そうなの!?





当たり前だ。一晩でどっさり生えたら怖いだろう?





……。





……。





まじゅつ!!





……は?





まじゅつがあるよ~!!まじゅつで、おヒゲをいっぱい、い~っぱい!!生やすのぉ~!!





誰の顎に生やす気だ?





ルイおにいちゃん!!





却下だ。





えぇ~っ!!なんでなんで~!?ユキはルイおにいちゃんのおヒゲが見たいんだよ~?


可愛い気に入りの幼子からの願いでも、もっさりヒゲを生やした自分など見たくないルイヴェルは同じ言葉を重ね続ける。却下、却下、断る断る断る!!以下エンドレス。



他の奴に生やしてやるから、それで我慢しろ。


そして、
まさかの人身御供ルートである。



いぃいいやああああああっ!!ルイおにいちゃんのおヒゲがいい!!ルイおにいちゃんのがいい!!見たい見たい見た~い!!





断る。





ルイおにいちゃんのバカ!!





生憎と、馬鹿に生まれた覚えがない。このド阿呆が。





ユキ!!アホじゃないもん!!





――っ!


売り言葉に買い言葉で始まった大人vs幼子!!
阿呆扱いされて怒ったユキがルイヴェルの額に渾身の頭突きをかまし、涙目になって叫ぶ!!



もうっ、なんで駄目なの!?ユキはルイおにいちゃんのだから見たいのに!!





俺がヒゲを望まないからだ……。ユキ、あまり駄々を捏ねると、仕置きをするぞ。





うぅ~!!





……。


睨み合い、一歩も引かぬ大人と子供。
両者どちらも自分の信念を譲らず、ついには互いのほっぺを両手に掴み合っての残念な戦いへと突入してしまう。



お~ひ~げ~!!





自分の顎にでも生やしていろ……。





やっ!!





毛むくじゃらにしてやろうか……っ。


ユキの『お願い』も子供の我儘でしかないのだが……、やはり、一番大人げないのはルイヴェルの方だろう。魔術でヒゲを生やしたとしても、すぐにそれを消す事も可能。なのに、ヒゲ姿の自分はあり得ないと思っているらしく、全く折れる気配がない。
――と、二人が延々と続きそうな喧嘩をしていた、その時。



こんにちはー。……あれ?ルイちゃん達何やってんの?


王宮医務室の外に面している庭から現れた、青い髪の青年。他国の騎士服を纏っているその青年、ガデルフォーン皇国騎士団長サージェスティンは、互いの髪をぐちゃぐちゃにして引っ張り合っている残念な二人組の姿を不思議そうに見ている。



……何でもない。それより、何の用だ?





えぇー……。今、なんか喧嘩っぽい事してたよね?子供ちゃん相手に本気で怒ってたよねー?





うるさい。





サージェスおにいちゃん!!





んー?何かなー?





おヒゲ見せて!!





え?





サージェスおにいちゃんのおヒゲ!!





おヒゲ……?


突然何を言い出すのやら……。
ルイヴェルは呆れ気味に息を吐き、事の次第を簡潔に話した。



あぁ、なるほどねー。子供って、好奇心旺盛だもんねー。うーん、ヒゲかぁ、……まぁ、魔術を応用すれば出来るけど、ルイちゃんは見せてあげないの?





見せる必要性などない。





ちょっとだけ、どばーっと生やして、しゅるっと消しちゃえばいいだけなのにぃ……。俺だったら、そのくらいしてあげるよー?





断る。





サージェスおにいちゃんはいい、って、そう言ってくれるのに、何でルイおにいちゃんはだめなの……。





気が進まないからだ。





そんなに嫌なの?





あぁ。





ヒゲネタで、ここまでどんよりとした空気作れるんだなー……。





……わがまま言って、ごめんなさい。ユキ、もう行くね。





……。





あ、ユキちゃん……。


期限を損ねているルイヴェルへと頭を下げ、幼子はとぼとぼと医務室の外に消えてしまった……。
その背を見送りながら、サージェスティンが頬を指先で小さく掻き、こちらを窺ってくる。



ヒゲぐらい、いいんじゃないの?





俺にヒゲは似合わん……。大体、ヒゲを触りたいなら、誰のでもいいだろうが。





ルイちゃんのだから、触りたかったんじゃない?





……。





まぁ、人の嫌がる事を強要しちゃ駄目だよってお勉強にはなったんだろうけど……。ちゃんと仲直りした方がいいよ。





……ふん。


心配だから様子を見てくる。
そう言って幼子の後を追っていったサージェスティンの背を見送り、ルイヴェルは晴れない気持ちを振り払うように前髪を掻き上げた。
