男性に連れてきてもらった場所は路地裏にある、普通の民家だった。けれど一歩中に踏み入れると、そこにはシーナの見たことのない物ばかりが目に飛び込んできた。
男性が「帰ったぞ」と一声かけると、風貌からこの家の住人であろう人が出てきたが、その人は少し怒り気味で。
男性に連れてきてもらった場所は路地裏にある、普通の民家だった。けれど一歩中に踏み入れると、そこにはシーナの見たことのない物ばかりが目に飛び込んできた。
男性が「帰ったぞ」と一声かけると、風貌からこの家の住人であろう人が出てきたが、その人は少し怒り気味で。



遅かったね、……どこを連れ回してきたのさ





いいだろ、少しぐらい楽しませてきたって、……お前はいつも真面目だからつまんねぇんだよ


怒り気味の男性に対して、当たり前のように隣にいる男性もすぐ言い返していた。この人が彼の言う「仲間」なのか。そんな事をゆっくり考えていると、この家の住人だと思う人が大きくため息をついて、シーナに対して声をかけてきた。



はぁぁ……、零と言い合い始めたらいつも終わらないんだよなぁ…、……ごめんね、お嬢さん、そして、ようこそ、僕の部屋へ





いいえ、……彼が言っていた仲間って言うのが貴方のことかしら…?


シーナはこの家の住人である男性に声をかけられて、はっと我に返った。初めて見る物がたくさん部屋にあって、彼らが言い合っている時から辺りを見回していたりしていた。自分の知らない物を見ることは楽しくて、そして興味深くて、もっと知りたいと思う。



仲間ねぇ、……毎日言い合ってる同僚みたいな物だよ、…で、お嬢さんは「漢字」を知っているかい?


シーナの問いに軽く呆れたように男性は返すと、そのままシーナに問いを返してきた。「漢字」、それは彼女が世話役から国際事情を学んだ時に少し聞いている、ような気がする。
彼女は少し記憶を辿って一つの答えを導き出した。



漢字……?遠い島国が築き上げた文字のこと、よね…?





そ、やっぱり知識としては持ってるものだね、……お嬢さんを連れてきたのはレイ、本当はその漢字で「零」って書くんだけどね


シーナが軽く知識としては知っていることに一息ついて安心した彼は、近くにあった紙に軽く何かを書いて彼女に見せてきた。そこには「零」と書いてあったが、本当にこれが文字なのかさえ悩ましいところではあった。異国語は難しい物だ。「漢字」はたくさんの線が入り組んでいて、彼女にとっては文字というより絵の方に近かったのかもしれない。



そういえば名前聞いてなかったわ、…レイ、ね、……お二人は遠い島国の人、なの…?


シーナを連れてきた男性に名前を聞く機会もなく、名前すら知らない状態で着いてきていたことに男性の言葉ではっと気づくシーナ。「レイ」、それが彼の名前。最初は怖かったけれど、自分が悲しみに溺れそうになった時に助け出してくれた、見た目とは違って優しい人の名前。彼女は頭の中で何度か名前を繰り返した。
そして、遠い島国の言葉である「漢字」が名前に使われているなら、遠い島国からやってきた人なのか。彼女は、疑問をレイの名前を教えてくれた男性に対してゆっくり問いかけた。



やっぱり、どうせ必要ないとか思って自己紹介してないと思った、……それでもよく着いてきてくれたね、…こいつ無愛想だったでしょ


しかしシーナの問いに彼は答えることなく、レイを指差して「何でこんな無愛想なやつ信用したの」という風に呆れて見せた。
問いに答えてくれないということは答えたくないことだと感じ取ったシーナは深く尋ねることはなく、「レイは私に対して良くしてくれた」と言おうとした。が、シーナの言葉が口から出てくる前に、すぐさまレイが言い返していた。



無愛想で悪かったな、……俺はこいつを連れてくるのが仕事なんだから、それ以上はしない、つもりだったんだけど……





だけど?





本当はすぐ連れてくるつもりだったけど、気に入ったから色々連れ回してきたんだよ


レイの言葉にシーナは嬉しく思った。もし真っ直ぐここに連れてこられていたら怖くなって逃げ出していたかもしれない。数時間前の彼女には何かを変えたいという心の柱がなかったから。でも彼女には今、しっかりとした心の柱が立っている、「笑顔が溢れ返って、全員を笑わせたい」と。
そう決意させてくれたのは紛れもなくレイであり、そのきっかけが自分なら彼女としてはとても嬉しいものであるのだ。
ただレイに対して発言したこの家の住人である男性の言葉は、シーナの心に刺さることとなる。



あー、……もし見つかってたらどうするつもりだったの、世話役がもう気付いて探し回ってるのは君の力でも分かるでしょ





え、……待って、…世話役が探し回ってるの……?私のことを…?


世話役が探し回っている。一番不安に思っていたことが、彼女が考えていたよりも早く起きていることにシーナは焦りを示した。世話役が探し回っているということは、もしかしてお父様の耳にも入っているのではないか。でももしお父様の耳に入っていたなら、あの中央広場で行われている店にすぐお城の者が来ているに違いない。
きっと世話役が一人で探してくれているのだ。そう彼女は悟った。



あぁ、言ったらお前を苦しめんだろ、……だから内緒にしてた


そのことがシーナの耳に入るのが遅かったのは、レイの優しい気配りだった。内緒にしていたことを申し訳なさそうに言うが、シーナとしては有難く思っていた。決意をしっかり固めてから聞けて、自分の感情から逃げ出せずに済んだ。逆戻りにならなくて良かった。
世話役には申し訳ないが、彼女は自分の感情にもう嘘は付けなかった。



そういう気遣いはできるんだな、……でも、もう後戻りは出来ない…大丈夫かい、お嬢さん?


「何で彼女には気遣いできるんだ」という風に呆れつつ、もう一人の男性も心配そうに問いかけてくれる。
自分に対して立場を無くしてもここまで優しく接してくれる二人は、世話役と同じぐらい、もしかしたら世話役以上に信用してもいいのかもしれない。そう彼女は感じていた。



……申し訳ないことをしたと思っているわ、…でも、…私はもう逃げたくないから、……この世界に笑顔を溢れさせたいの


でもやっぱり世話役に対して心配をかけていることに変わりはない。また表情を暗くしたシーナに対して、優しくレイが声をかけた。「幸せ」が「笑顔」で舞い込んでくる、だから笑ってと。



大丈夫だ、……笑ってみせろって





……そうね、…ねぇ、私にもっと、この世界の、遠い島国のことも、教えてもらいたいの


レイの言葉でシーナはふと我に返ると、ゆっくり深呼吸をして笑顔を取り戻す。その姿を見たこの家の住人は驚いたようにレイを見つめて、大きく溜め息をついた。



……へぇ、…零は僕には気遣いすらしてくれないのに、お嬢さんには色々したみたいだね、……今回はお嬢さんに免じて許してあげようか





えぇ、レイには良くしてもらったわ、…仕事としては許されないことかもしれないけれど、私としては悪いことはしてないと思うわよ


今回は全て悪いわけではない。きっとシーナの為に動いたのだろう。そう感じた男性はレイを特例として許してあげようと言い出した。その言葉に対してレイが答えるよりも先に、シーナが嬉しそうに微笑みながら返していた。
彼女の言葉に驚いたレイは少し間を空けて、シーナの言葉に便乗するかのように言葉を続けた。



ほら、…俺は仕事以上のことをしたんだから、……怒られることなんてしてねぇよ


レイはこのタイミングで言質をとっておこうと思ったが、そう上手くはいかないようで。男性はもう一度溜め息をつくとレイに向き直って、説教を始めた。



いやいや、それでも危険が伴う行動をとったのは後で嗜めるから、全てが悪くないわけじゃないからね?





あー、聞こえなーい


しかしその説教を聞き流すかのように、レイは耳を軽く塞いで大きな声を出して見せた。
そんな姿を見て、シーナはくすくす笑いながら無意識に言葉を紡いでいた。



同僚っていうよりお友達みたいね





友達?零と?そんなことありえないよ、信じたくもない





俺も嫌だね、気が合わなすぎる





……ふふっ、…本当に仲が良いのね


シーナの言葉に驚いた様子で振り返った二人は、そのまま同時に「友達」なんてありえないと言い始めた。
喧嘩するほど仲がいい、とはこういうことをいうのかもしれない。シーナはそう考えながら楽しそうに笑って見せたので、男性は説教を一先ずやめて大きく息を吐いた。そしてレイは笑う彼女を嬉しそうに見ていた。



そうだ、零に釣られて自己紹介するの忘れる所だった、……僕はイチ、漢字で書くと「市」だね、…宜しく


大きく息を吐いた男性は思い出したかのように、先ほど「零」と書いた紙の裏に軽く何かを書くと、シーナに見せてきた。そこにはレイの名前よりも複雑ではない、でもやはり文字には見えない、「市」と書いてあった。その「漢字」を見ながら何度か「イチ」と頭の中で繰り返すと、笑顔でシーナは返事をした。



えぇ、……こちらこそ、…イチさん、宜しくお願いしますわ


イチはシーナに対して椅子に座るように促すと、そのままレイに軽く耳打ちをした。レイが面倒くさそうに部屋から出て行く姿を見送ったイチは、机を挟んでシーナの前にある椅子に座ると、語部のように淡々と言葉を始めた。



……さて、僕は君が望むことを叶えるほどの知識がないかもしれない、でも取り敢えず主人の所に案内する前に、遠い島国について教えてあげようか





えぇ、……たくさん教えてちょうだい


新たな知識が得られることはシーナにとって嬉しいことで。興味深そうにイチの言葉に耳を傾けた。
