三
三



俺を犬の姿に変えたのは、ある魔法師でね


ダイ・シュティンドルと名乗った白銀の犬は、木戸の隙間から外を覗きながら言った。
リーシャとダイがいるのは、森の草木に半分ほど埋もれかかった小屋だ。
室内は大人が五人も入れば窮屈になるほど。
束ねた藁と薪が数本、あとは柄の折れた鍬と草刈り用の鎌が転がっているだけで、ほかにはなにもない。
農作業用の物置だったのかもしれないが、今は使われている様子のない小屋だった。
魔獣との戦いに役立ちそうなものはないかと期待して飛び込んだのだが、使えそうなのは草刈り鎌くらいか。



魔法師がそんなひどいことを?


リーシャは、木戸とは反対側の明り取りの窓から外を警戒しつつ、訊いた。
ここまでリーシャを乗せて走ってきたダイは、呼吸を整えながらうなずいた。



ルケ・ラルデラの魔法……死罰反転の守護が、俺にはかけられていたから。その魔法師は俺を殺すことはできなかったんだよ


ルケ・ラルデラの魔法――死罰反転の守護。
母親の書き記した魔法書で、リーシャも読んだことがある。
殺された者がその守護を得ていた場合、殺した者にも同様に死が降りかかる魔法だ。
身分の高い者たちに、使用されることが多いと聞く。
ということは、ダイも爵位のある家柄なのかもしれない。
そう言えば、シュティンドルってどこかで聞いたことがあるような……。



だから俺を犬の姿に変え、ご丁寧に魔獣の呪いまでかけたんだろう。まあ、策としては悪くないと思うよ。俺、犬、好きだし


ひとごとのように言う。しかも犬好きはこの際関係ないと思う



う~ん……


犬に変えられ、九体の魔獣に呪われた人間が悠然としてるのを見ると、呪いがひとつの自分がうろたえるのは変な気がしてくる。
ましてや、子爵の妾になることなんてどうってことないような――。



いやいやいや、どうってことあるわよっ


リーシャは独り言をつぶやき、頭をぶんぶん振った。
普通に考えて人生の瀬戸際だ。絶体絶命だ。平然としているほうがおかしい。



でもあなた……ダイはなんで命を狙われたの? 悪いことでもしたの?





悪いこと?


ダイは、ふうむ、と唸り、それから鼻から息を吐くように笑った。



誰かにとっては、俺の存在そのものが悪いことなんだろうね


首をかしげるリーシャに、ダイは屈託のない口調で続けた。



よくあるお家騒動だよ。俺にはそのつもりがなくても、継承権があることで家督争いに巻き込まれてしまう。
俺が死ぬことで喜ぶ人間がいるのさ……とくに身内にね





で、でもだからって殺そうとするなんて……身内の死を願うなんてあんまりよ……そんなの……そんなのひどい!


母を亡くし、心が引き裂かれる哀しみを経験したリーシャには、身内の死を願う人間がいることに激しい嫌悪を覚えてしまう。
加えて、ひとを幸せにする憧れの魔法師が、そんな邪まな企みに加担していることが悔しくて、腹立たしかった。
憤慨するリーシャに、ダイは物静かなまなざしを向けた。



ありがとう、俺のために怒ってくれて


その口ぶりがあまりに優しくて、リーシャはこんなときだというのに、頬が少し熱くなった。



そんなの、怒って当然のことだもの。というより、ダイがもっと怒らなきゃ。そうよ、あなたが怒らないからわたしが……て、なんだかよくわかんないこと言ってるわね


肩をすぼめるリーシャに、ダイは興味深げに言った。



君は不思議なお嬢さんだ





?





荒唐無稽な俺の話を、少しも疑うそぶりがない。俺を信じてくれている





それは……


ダイの言うとおり、彼の話は荒唐無稽だ。
しかしリーシャにはそれが嘘でないとわかる。
もしダイが嘘をついたなら、リーシャにはきっと、その偽りに隠れた心の声が聞こえていたはずだから。



犬になった俺の声を、君は聞くことができる。こうして話ができる。よかったら教えてくれないかな。それがなぜなのかを





それはわたしにもよくわからない……けど、もしかしたらわたしの力が関係してるのかもしれない





力?


生きるか死ぬかの状況で隠しておく理由もない。リーシャは話すことにした。



偽りの裏にある、心の声を識る異能……わたしにはそれがあるから


その力のことだけを話すつもりだったのに、発現のきっかけである母の死に触れたら、次から次へと言葉があふれた。
母との思い出。死別後の生活。
叔父夫婦の家に世話になっていること。自分を受け入れてくれた優しい彼らのこと。
それでもときおり淋しくてたまらなくなること。
母のような魔法師になりたいこと。でも魔法がひとつもできなくて悔しいこと。
友達の心の声を識ったせいで傷ついたこと。
けれどこの力はきっと母からの贈り物。大切にしていきたいと思っていること。



でも……もうなにもかも意味ないわ。わたしは子爵の妾にならないといけないから


子爵との件を告げ、今夜森に来た理由まで一気に話し終えると、リーシャは大きく息を吐いた。
全部話したら気分はいくらかすっきりしたが、心が空っぽになったみたいな空虚感と疲労を覚えた。
リーシャはぐったりと小屋の壁にもたれ、自嘲した。



ここで魔獣に食べられちゃったら、妾もなにもないけどね


言葉にしたことで、あらためて嫌だな、と思った。
魔獣に殺されることも、妾になることも。
でもそれに抗う力が、勇気が、自分にはない。
不甲斐なさを痛感する彼女に、ダイはおもむろに近づいた。一瞬ためらうように首を引いたが、意を決したのか、顔を突き出した。
ぺろっ。
リーシャの指先をなめた。



ひゃっ


面食らうリーシャに、ダイは照れ臭そうに目をそらした。



犬の身としては、このくらいしか思いつかなくて。ひとの姿だったら、君の涙を拭いてあげられたのに


ダイに言われてはじめて、リーシャは自分が泣いてることに気づいた。
ぽろぽろと、いろんな感情が零れ落ちる涙だった。
情けないなあ。
同情を誘ってるみたいでみっともない。
すぐにブラウスの袖口で涙を拭きながら、ダイが今、自分を慰めてくれたことを知り、心が温かくなった。
優しいんだ、ダイは。



ありがと、ね


礼を言うとダイは微笑んだが、すぐに真剣なまなざしをリーシャに向けた。



君は夢を諦める必要なんかない。魔法師を目指すべきだ


その強い口調に戸惑いつつ、リーシャはダイと目線を合わせるためにしゃがんだ。



無理よ、そんなの





どうして?





言ったでしょ? わたし、初歩的な魔法もなにひとつできないの。これでも毎日お母さんの書いた魔法書片手に、練習してたんだから


哀しげに声を落とすリーシャ。



でもどんなに練習してもダメだった。わたしには魔法師になれる才能なんてないの


けれどダイは即座に否定した。



それは違う。君は間違いなく魔法師の資質がある。それも特別と言っていいくらいの





慰めてくれなくてもいいわよ





事実を言ってるだけさ





嘘





嘘をついたら、君にはわかるんだろ?


たしかに。
けれど、自分に魔法師の資質があるなんてとうてい信じられない。
怪訝顔のリーシャにかまわず、ダイは続けた。



心の声を識る異能……。君はそれを魔法だと思ったことはなかったのかい?





え?


リーシャはきょとんとした。心の声を識る力が魔法?
そんなこと思いつきもしなかったし、今この場でその可能性を考えてみても…………やっぱりありえないと思う。



魔法なわけないわ。だって魔法は、マナを反応させ、現象を構成し、現実に固定するための詠唱が必要だもの。
心の声を識るときに、わたしは詠唱なんてしたことない。一度も





だから特別だと言ったのさ。いいかい、リーシャ。君のはおそらく無詠唱魔法だ





無詠唱魔法?





魔法師の中でも魔法力や技術に優れたものしかできない発動法のことだよ。君はそれを無意識に、魔法とは知らずに使っていたんだろう





……嘘





またそれ?


犬の苦笑を、リーシャははじめて見た。



ここからは俺の推測だけど


ダイはそう前置きしてから、続けた。



君にとって、もっとも心のつながりがあったのは母親だったと思う。それは互いになにを考えてるかわかるくらい深く、嘘偽りのない関係だったんじゃないかな





もちろんそうよ。お母さんはわたしを愛してくれたし、わたしもお母さんが大好きだったもの





うん。でもそれがお母さんの死によって唐突に断たれたとき、幼い君は淋しさから、周囲にもそれを求めたんだ。
亡くなったお母さんを探すように、嘘偽りのない心を欲し、それが魔法を発動させる鍵となった





心の声を識る魔法を、そのとき君が君自身にかけたんだ


にわかには信じられない。
けれどダイの推測を頭ごなしに否定することも、リーシャにはできなかった。



それは計算したものじゃなく、君の純粋な意志の力だと、俺は思う





意志の力……





魔法はね、ひとの強い意志の顕れだから


リーシャを励ますように、ダイは鼻先で彼女の肩をつついた。



だから君は目指したらいい。強い意志の力で魔法師になる夢を叶えたらいいんだ


ダイの言葉にリーシャの胸は熱くなった。
自分の夢を自分以外の誰かが後押ししてくれることが、こんなにもうれしいことだとはじめて知った。
いや、はじめてじゃない。
リーシャは思い出す。
母も生前、リーシャが無邪気な夢を語るたびに、いつも温かな笑顔とともに言ってくれていた。
“リーシャはきっとたくさんのひとを幸せにできる魔法師になれるわ”――と。
またリーシャの瞳から涙がこぼれた。
けれどこれは先程の、自身の不甲斐なさに閉じこもって流した涙とは違い、心が奮え立つ心地よさがあった。



君は泣き虫なんだね


ぼやけた視界に、こちらを覗き込むダイの姿があった。からかうような口ぶりだったが、まなざしは優しい。



また指をなめたほうがいいのかな?





バカ


気恥ずかしくなり、リーシャは涙を指で拭ってそっぽを向いた。
そんなリーシャに安堵したのか、ダイは小さくうなずき、それから思案気にななめ上の虚空を見つめた。



心の声を識る魔法は、嘘偽りを見破り、真実が伝わってくる魔法……。だから君には犬になった俺の声が理解できるのかもしれない





どういうこと?


小首をかしげるリーシャに、ダイは視線を移した。



だって、人間なのに犬の姿の俺は、存在そのものが偽りだから


リーシャの魔法は、偽りに隠された本当のダイ・シュティンドルを見つけだしたのだ。



うれしかったよ。僕の声を聞ける人に出会えて


面と向かって、そんなことを言われたリーシャは感激した。リーシャのほうがよほどうれしい。
心の声を識る異能――魔法かもしれないが、それがこれほど誇らしく思えたのははじめてだった。
やっぱり、わたしは魔法師になりたい。
自分の魔法で誰かが喜んでくれること。それはこんなにも素敵なことなのだから。
胸中に、そんな決意の炎が灯ったときだ。
小屋の外で、メキメキと木々が倒される音がした。かすかな振動が、室内のふたりにも伝わってきて、ともに顔色を変えた。
ダイが木戸に駆け寄り、その隙間から外をうかがう。ピクリと動く耳が、彼の緊張を表わしている。



魔獣だ


つづく
