そのままブランカと薔薇のことで話し込んでしまったエリカが帰路についたのは、既に日がだいぶん傾いている頃。



すっかり、遅くなっちゃった。


そのままブランカと薔薇のことで話し込んでしまったエリカが帰路についたのは、既に日がだいぶん傾いている頃。



急いで、帰らなくちゃ。
……リト、心配してるかもしれない。


急いていた足が、さらに急く。
近道である、帝都の西の境界線となっている川沿いの小道を、エリカの足はステップを踏むように走っていた。
と。
エリカが歩く道の横、川の方に一段低くなった石の多い場所に、白いものを見つける。



何かしら?


好奇心のままに川原の方に下りたエリカが見たのは、川原に散乱する、踏みにじられた白詰草。
そして。その少し先の、流れる水の中にある岩に引っかかっている黒いものに、エリカの息は止まった。



あれ、……まさか!


あの、流れの間に微かに見え隠れする、斜めになった縫い跡は、知っている。エリカが縫って、リトが常に身に付けている、飾りマント!



リト!


滔々と流れる川に、叫ぶ。
帝都の防御を兼ねているこの川は、時々堆積物を掘り出して水深を深くしていると、図書館の本にあった。
平原の、荒野の生活しか知らないリトは、泳げただろうか? 不吉な予感が胸を押し潰すのをどうにか振り切り、エリカは下流へと走った。
この川は、下流で、帝都を縦断する大河に合流する。船も往来するその大河まで流されてしまっていたら。もう一度、脳裏を過ぎった不吉な考えを、エリカは首を強く振って振り落とした。
と。
川が大河に合流する手前の、曲がる場所にできた大きめの川原に、人だかりを認める。



まさか……!


整わない息のまま、エリカは人混みをかき分けた。



……。





リトっ!


人混みの真ん中に横たわっていた人物に、全身の力が抜ける。砂よりも石の多い河原に、エリカは膝をついた。



リト……。





……。


身動き一つしないリトの髪は頬に張り付き、あちこちに斬られたような跡がみえる灰色の服は泥と血で汚れている。だが、……息は、ある。



良かったぁ……。


頬を流れ落ちる涙を、エリカは止めることができなかった。
川原に集まっていた人々の手を借りて、動けないリトをエリカの屋敷に運び込む。



命には別状ありませんが、かなり手酷く殴られていますね。
……矢傷も、あります。


医術の心得もあるダリオを手伝いながらリトの怪我の酷さを見、エリカは唇を噛みしめた。
『黒剣隊』の長として辣腕を振るっていたリトの実力は、まだ短い間しかリトと接していないエリカもしっかりと知っている。帝都に向かう森の中でいきなり現れた魔物を退治したり、難癖を付けてきた紫金騎士団の長ラウルを一瞬で気絶させたリトの武術を間近で見ているのだから、当然。
そのリトに、ここまでの怪我を負わせたのは、いったい何者? ダリオが見つけた、リトが握っていた金色に光る釦に、エリカはすぐに答えを出した。



まさか、……ラウル、が?


昼食会や晩餐会で見た、屈託の全く見えないラウルの笑顔が、脳裏を過ぎる。
まさかとは思うが、屈辱を晴らす為に、数を頼んでリトに不意打ちを仕掛けるよう、ラウルが自分の部下である紫金騎士団の面々に命じたのなら、悲しい。
そして。



リト……。


ダリオの手当が良かったのか、月明かりが降り注ぐ部屋で静かに眠るリトの、怪我の熱に浮かされた額に冷たい手ぬぐいを置く。
リトが川原にいた理由は、おそらく、川原に近い牧草地に咲く白詰草を摘む為。ラウルから渡された薔薇に喜ぶエリカを見て、自分も花を贈ろうと思ったのだろう。川原に散乱した、踏みにじられた白い小さな花々を思い出し、エリカは俯いてリトの、少しだけ歪んだ端正な顔を見つめた。



ごめんね、リト。


小さな声が、響く。
その時。



……え?


不意の人の気配に、顔を上げる。
立ち上がってリトを庇うより早く、暗い色をした影はエリカを突き飛ばし、青く濡れた短刀を眠るリトの胸に振り下ろした。



ダメっ!


叫ぶ前に、無意識の動作で凶客を突き飛ばす。左手に走る痛みに構わず、エリカは西の街での武術訓練で培った大声を出した。



ダリオっ! 来てっ!


次の瞬間。
再びエリカとリトに襲いかかろうとした暗い影が、力を無くして床に頽れる。その影の後ろにいたのは、どことなく不敵な笑みを浮かべた、リトよりもさらに小柄な青年。



……。





誰だっ!


エリカの叫び声が聞こえたのだろう、素早く駆けつけてくれたダリオが、青年の襟を強く掴む。
だが。



大丈夫です、ダリオさん。


騒ぎで意識を取り戻したのであろう、穏やかなリトの声に、エリカはほっと胸を撫で下ろした。



こいつは、『軽業師』のパキト。『黒剣隊』の、私の部下です。





やっぱりここにも来てましたか、刺客。


ダリオが襟を放す前に、リトがパキトと呼んだ青年は床に頽れた暗い色の服をまとった影に唾を吐く。



しかも毒を塗った短刀ときたもんだ。





リト殿が、誰かに狙われているというのですか?





隊長だけじゃない。


パキトに鋭い視線を向けたダリオに、パキトは深刻な言葉を吐いた。



『黒剣隊』全員が狙われている。





何だと!


怒りの色を帯びたリトの声が、辺りの空気を震わせた。



俺が知っているだけでも、数人、刺客の手に落ちてますぜ、隊長。





そんな……。


唇を噛みしめるリトを、エリカは呆然と見つめた。



と、すると、ここも危ない。そういうことですね。


パキトの言葉を数瞬で噛み砕いたダリオが、頷く。



すぐに逃げる支度をします。
夜明け前にはここを発ちましょう。





お願いします。


そして。



パキト。


ダリオが部屋を出て行ってすぐ、不意に、リトがエリカの左手を掴んで引き寄せる。



……!





解毒剤はあるか?





もちろん、持ってますぜ。





いつものことながら用意が良いな。


引き寄せたエリカの掌に唇を這わせたリトに、エリカの全身は硬直した。



な……。


叫ぶことも、エリカの左手首を掴むリトの熱い手を振り解くことも、できない。



じっとしてて。


そのエリカの耳に、エリカの掌から唇を放し、近くの盥に何かを吐き出したリトの穏やかな声が響いた。



毒を吸い出しているだけだから。


そう、言われてみれば。刺客を止めたときに感じた左手の痛みが、痺れるように熱い。
パキトから受け取った乾いた草のようなものを噛んで柔らかくし、エリカの掌に押しつけるリトが、どこかぼうっとして見える。



手が震えてますぜ、隊長。
包帯、俺が巻きましょうか?





いや、いい。
私が巻く。


おそらく毒の所為だろう。胸が痛くなるほど、鼓動が早い。エリカの左手に、リトの怪我の治療に使った包帯の残りを巻くリトの、熱の所為で震える手を、エリカはただ呆然と、見つめ続けていた。
