追跡者の腕がルミの肩を掴んだ
ギャアァァァー、ヤメて、来ないでー、触らないでー、殺さないでー、食べないでー
ルミはあらん限りの声を張り上げ泣き叫んだ。
お願い、何でもするから、殺さないでちょうだい！
今度は土下座して命乞いをするルミ。
奥さん！
落ち着いてください！
男が慌てふためいた様子で話しかける。
お願い、命だけは助けて、お金ならいくらでもあげるわ
恐怖のあまりパニック状態に陥っているルミの耳に男の言葉は入っていない。
その場にしゃがみこんで必死でルミをなだめているオオクボ。
やめてー、近寄らないでー
錯乱状態のルミは事態を把握できずにわめき続けていた。
え？ オオクボって……
しばらくしてやっと我に返った様子のルミ。
あなたは、町内会長のオオクボなの？
そういってオオクボを見上げるルミの顔は涙と吐瀉物で化粧が崩れ見るも無残に変容していた。
そうです、町内会長のオオクボです
ちょっと！ びっくりさせないで頂戴、死ぬかと思ったわ
ルミはそう言いながら立ち上がると、ハンドバッグからシルクのハンカチを取り出し汚れた口元を丁寧に拭った。
脅かしてすみません。こんな真夜中に一人で歩いてる奥さんを見かけたもんで、心配でついて来たんです
オオクボは本当に申し訳なさそうに小柄な体を更に小さくして頭を下げた。
それならそうと最初から声かけなさいよ！ 紛らわしいわ、全く
強い口調でそう言いながらルミの胸中ではゆっくりと安堵感が広がっていった。
すみません、奥さん
びっくりするじゃないの！ こんな暗がりで後ろから追いかけて来るなんて、非常識にも程があるわ！
申し訳ありません
コメツキバッタのように何度も頭を下げるオオクボ。
大体あなたこんな時間に何してるのよ？
いや、例のバラバラ殺人の犯人がまた現れやしないかと思って
それで、あなたが見廻りに？
そうです！ 町内の治安維持も私の仕事ですから
オオクボはここぞとばかり胸を張ってそう答えた。
感心するわ、ご苦労なことね
そういって、ふんっと馬鹿にしたように鼻を鳴らすルミ。
奥さんこそこんな時間に何を？
私は政治家の妻よ！ それなりにお付き合いも多いのよ。あなたには関係ないでしょ
オオクボが差し出したハイヒールを履きながらルミはいった。
そりゃそうでしょうが、実は私見てしまったもんで……奥さんがさっき若い男と一緒のところを
ふざけないでよ！ あなた一体なにが目的なの？
それには答えずオオクボは肩から下げていたバッグから一眼レフのデジタルカメラを取りした。
私はこのカメラで犯人を撮影しようと思ってたんですが……
それでなによ！
最近の暗視レンズの性能は素晴らしいですよ。こんな暗がりでもまるで昼間のように明るくはっきり撮れるんです
だからなによ！
ほら、こんなにはっきりと撮れている
オオクボは、デジタルカメラの背面液晶モニターをルミの眼前に突きつけた。
そこにはホストのユウヤに後ろから抱きすくめられたルミの姿が映しだされていた。
この写真がどうしたっていうのよ！
こんな写真が街中にバラまかれた日には困るんじゃあないですか、奥さんも？ だから、単刀直入に申し上げると…… 買ってもらえませんかね？ この写真
あんた、ふざけるのもいい加減にしなさいよ！ この私を恐喝する気？
恐喝だなんて、人聞きが悪いですな。奥さん、もっと和やかに話しませんか。私はただこの記念写真を買っていただけないかとお願いしてるだけですよ。ほら遊園地でよくやってるじゃないですか、ジェットコースターに乗ってる時の写真を勝手に撮られて出口のところで売ってる。あれとおんなじですよ、もうちょっとビジネスライクにいきましょうや
オオクボは下卑た笑みを浮かべていたがその目は笑っていなかった。
いいわ。いくら欲しいのよ
ルミは唇を尖らせた。
ご理解いただけたようで光栄です。代金についてはまた別の機会にゆっくりお話しましょうか、今夜はもう遅い
オオクボはルミの目を見て勝ち誇ったようにそういった。
そうだ奥さん、車で送りますよ。本当に殺人鬼が現れたら大変だ
そういうとオオクボは微笑みを浮かべたまま踵を返すとルミに背を向け歩き出した。
本当に今日は最低の一日だわ
ルミは天を仰ぐと心からそう思った。
歩き出したオオクボの後を少し距離をおいて無言のまま緩慢な動作で付いていくルミ。
歩きながらゴソゴソとハンドバックをまさぐると護身用に持ち歩いているハンディータイプのスタンガンを取り出した。
すると今度は敏捷な身のこなしで前を歩いているオオクボの背後に駆け寄り、男にしては小柄なオオクボの無防備な首筋にスタンガンの電極を押し付けた。
！？
次の瞬間青白い閃光が放たれると九十万ボルトの電圧がオオクボのうなじを直撃した。
ルミの不意打ち、その凄まじい衝撃に声にならない叫びを上げるとオオクボは瞬時にアスファルトの路面に頭から倒れこんだ。
続いて素早い動作でルミは落ちているオオクボのバッグからカメラを取り出すと勢いに任せて路上に叩きつけた。
そして衝撃でバラバラになったカメラの本体部分にスタンガンを当てるとトリガーを引いた。
カメラはバチバチとスパーク音をあげ一瞬で白煙を吹き上げた。
馬鹿ね、下民のくせに調子に乗るから、こうなるのよ
気を失って倒れているオオクボに向かってそう言うとルミは早足にその場を立ち去った。
