暗闇で目が開いた。
暗闇で目が開いた。
"目が覚めた"というにはいささか不自然なほど自然に起きてしまった。



……


夜明けにはまだ間があるらしい。
北斎宅には時計が無い。
こだわりなどという几帳面なものを持ち合わせているわけでは決してなく、ただ単に横着者が横着しているだけだ。筆を選ばないどころか、必要なものすら持っていない弘法は、己の感覚を頼りに生きている。



4時くらいだろ


現時刻に当たりをつけて煎餅布団から半身を起こす。
布団が暖かい。



……


すでにお分かりだろうが、北斎は今究極の選択を迫られている。
寝るか。起きるか。
しかし、彼の中では10:0で寝るが勝っていることも承知のことと思う。
だが北斎は結果的には起きた。
なぜか。
暖かい布団の中で彼はあるものを欲したのだ。
それは何か。
夜明け前の暗く寂しい布団の中で稀代の絵師、葛飾北斎はぽつりとつぶやいた。



コーヒー…


かすれ声が闇に吸い込まれていく。
二、三度の瞬きの後、彼に天啓が降りた。
そうだ、



広重クン家に行こう


のそりと布団から起きだす。
ぼさぼさの頭もそのままに北斎は下駄に足を通すと、からんころんと肌寒い夜明け前の路を広重クンの家に向かって歩き出す。
どてらの裾に手を入れて歩いていると、東の空が赤みを帯びてくるのが見えた。濃い黄身のようなとろりとした朝日が生き物のようにじわりじわりと昇ってくるのがわかる。空に色を吸い取られたように周りは暗く、青と橙がこの世を支配していた。
北斎はこの瞬間が好きだった。
描けるものなら描いてみろ
と、言われているようで。



……


北斎は微動だにせず、地球の目覚めと対峙した。
チュン…チュン…
雀が起きだしたころ、広重の家についた。手慣れた様子で門扉を抜ける。飛び石を歩き、まだ薄闇の庭を抜ける。玄関へは行かず、いつも広重がいる縁側へ向かった。
”からんころん”が石とぶつかるたびに響く。



部屋はこっちだったよな


和洋折衷の立派な屋敷の主は、障子も閉めずに机に突っ伏して寝ていた。



開けっ放しかい


そろりと縁側に腰掛ける。小気味よい寝息が耳を澄まさずともよく聞こえてくる。北斎は、広重の輪郭をなぞるように見つめた。
そうしてしばらく見ていると早起きがたたってか、堪えきれずにあくびが出た。



ふぁー~あ





……


広重は厄介者を見る目である。



?


こんなに爽やかな朝にそぐわない陰鬱な顔には元気よく挨拶を!



オッス!


おや? 顔が険しくなったような…



おはようございます


テンション低!!



どうし…





珈琲くれ





…うちは喫茶店じゃないんですがね


低血圧の広重クンのわりには朝から景気の良い返しをするなと北斎は感心していた。



あれ? そうだっけ?


北斎がとぼけてみせると、広重は困った中にも少し嬉しそうにしているような顔で文机に手をついた。



どっこいせ





どっこいせって…お前いくつよ?


俺でも言わんぞ、それ。
広重が奥で珈琲を入れている間、北斎は縁側から美しい庭を見ていた。
庭では小鳥たちが賑やかである。
『頭を空にする。何も考えず、ぽっかり穴を開けて、最初に浮かんだものを捉えろ』それが北斎の信条だ。



……


北斎は懐から紙を取り出すと息を止めて絵筆を滑らせた。
本能に従うために、腕を磨いた。
描きたいと思うものを描きたいように描くために。



…どうぞ


いつの間にか広重が珈琲を手に絵を覗いていた。



おう、サンキュ♪


手をかけて、心を込めて作ったものにはタマシイが宿るという。北斎は、それを求め、愛でることを喜びとしていた。
たとえば、一杯の珈琲。



うまい!





……どうも


たとえば…
