その朝を、久成はまんじりともせずに迎えていた。
囲炉裏端で灰を掻きながら、ひたすらに一つのことを思案していた。
だからだろう。背後でみし、と床が軋むまで、妹が現れたことに気づけなかった。
その朝を、久成はまんじりともせずに迎えていた。
囲炉裏端で灰を掻きながら、ひたすらに一つのことを思案していた。
だからだろう。背後でみし、と床が軋むまで、妹が現れたことに気づけなかった。



……佐和子


振り向きざまに名を呼ぶと、背後に立った妹が口を開く。



起きていらしたのですか、兄上





ああ





眠れませんでしたか





……いや


久成は曖昧に答え、かか座に腰を下ろした佐和子へ灰掻きを手渡す。
火の扱いは佐和子の方が慣れていた。まめの目立つ荒れた手が、器用に火を熾す。薪が燃え出せば、辺りは明々と照らされる。



寒くはありませんでしたか?
声を掛けてくださればよかったのに……





寝ているところを起こしては悪い


正直に告げても、妹はその気遣いを喜ばない。かえって気遣わしげにされた。



私のことなら構いませんから
近頃は大分、調子がいいようです


久成からすればどうしたって構うのだった。今となっては唯一の家族である妹だ、兄として丁重に扱ってやりたかった。
そうしたくても出来ていない現状があれば、尚更に。



お疲れでしたか





さすがにな。身体が鈍っていたようだ


これは正直な答えではなかった。身体の疲れなど微々たるもので、寝付けなくなるほどでは決してない。



残念でございましたね。
日暮れまで山にいたのに、何の成果もなくて





……ああ





山の狐も、兄上たちを見て逃げてしまったのかもしれませんね。
これで里まで下りてこなくなるといいのですけど


佐和子は横顔で笑んでいる。見慣れた顔だというのに、その胸中は読み取れない。
久成は妹の顔色をうかがいつつ、しばらくの間黙っていた。
昨日は山へ、狐を狩りに出かけていた。
山の裾野にあるこの農村では、近頃里へ下りてくる無用心な狐の姿をちょくちょく見かけるようになっていた。
ちょうど田植えの時期を控えていて、村人達は狐の出没を酷く警戒していた。昨年が不作の年だったことも影響していたようだ。田畑を荒らされては一大事と寄り合いでもたびたび話題に上っていた。
遂には山狩りをしようという話が持ち上がり、火縄銃を持っていた久成にもお声が掛かった。
久成は妹の目を気にしつつ、その誘いを受けた。
迂闊にも狐が残していった小さな足跡を頼りに、銃を携えた久成達は山へ入った。
狐がいたら見つけ次第仕留めること。それが村の為になることだと、一同は勇んで獲物を捜し回った。
だが日暮れまで山の中を歩いても、結局誰一人として、一匹の狐さえ仕留めることができなかった。



何か、温かいものでも用意しましょうか





いや、いい


やっとの思いで唇を解き、それでも後の言葉が続かない。抱え込む思いを言うべきか、言わざるべきか、久成は煩悶していた。
そぶりだけでも察したのだろうか、佐和子もふと笑みを消す。
ぱちぱちと爆ぜる音がしばらく続いた。
そこに優しい声が、こちらをうかがうようにそっと加わった。



本当は、行きたくなかったのではございませんか


佐和子が言う。尋ねる口調ではない。
久成は目を伏せた。少しの間を置き、息を吐きながら答える。



いや、そんなことはない





差し出口でしたね、申し訳ございません





気にするな


即座に詫びられ、もう一度かぶりを振る。
山狩りを多少億劫に思ったのは事実だが、全く気乗りしなかったわけでもない。むしろ久成はこの狩りを楽しみにしていたし、意気込んでもいた。
父の形見である火縄銃は日々手入れを怠っていなかったが、近頃では撃つ機会がなかなか訪れなかった。狐狩りとは習練としてもよい機会だと思った。
久成が火縄銃を持ち出すことに、妹は浮かない様子だった。表立って止められたわけではないが、村の為だと言い訳のように告げて家を後にしたのが昨日のことだ。
しかし、現実には――。



佐和子





……兄上、何か?


こちらを見る目に、隠し切れぬ狼狽の色が覗く。昨日の朝、狩りに出る間際に向けられたのと同じ眼差しだった。
久成の胸裏には焼け付くような思いが過ぎる。
それを呑み込もうと切り出した。



俺は、狐に会った





えっ……!





誰にも言うな


釘を刺し、妹が頷いたのを見て、更に語を継ぐ。



山で狐に会った。子狐だろうか、思ったよりも小さな奴だった


昨日のことだから容易く思い出すことができた。
小首を傾げるようなその仕種。
草むらの中に潜り込んだ、小さな身体つきの狐。



賢そうな奴でもあったな。
人の言葉がわかるような顔をしていた





それで、どうなさったのですか





どうもこうもない。
お前に話した通りだ、獲物も成果もなかった





逃がしてあげたのでしょう


長い付き合いの兄妹だからか、こちらの言動など妹にはあっさりと見透かされているらしい。久成には佐和子の胸中が、時々まるでわからなくなると言うのに。
ともあれ、言い当てられようとしたので、先んじて答えてやった。



まあ、そのようなものだ





さすがは兄上。ご立派な行いでございます





誉められるようなことではない。
村の連中は狐を追い払おうとしていたのに、俺がそれを邪魔したのだからな





いいえ。
無益な殺生はしないこと、それが一番よいのでございます。
私は兄上の行いが正しいと思います


佐和子が熱心に誉めたがるので、久成は事の真実を飲み込んでしまうことにした。
本当は違った。
あの狐をただの優しさから逃がしたわけでも、逃がしてやりたかったわけではないのだ。



兄上は正しいことをなさいました。
狐もきっと、兄上の思いを酌んでくれることでしょう





そうだろうか。
恩返しにでも来ると思うか、佐和子


いつになくうきうきと話す妹に、兄もつい気分がよくなる。
佐和子が楽しそうにするのは滅多にないことだった。おどけた物言いで聞き返せば、すかさず笑みまで見せてくる。



ええ。狐女房の話もありますでしょう


一転、久成は妹の慧眼さにぎょっとした。兄の心をどこまで見透かしているのかと恐ろしささえ覚えた。
それでも口では平然と言った。



あれはお伽話だ、本当にあるものか





でも、狐も鶴も亀だって、助けてやれば恩返しをするものと言うでしょう。
兄上のところにも、狐のお嫁様がやってくるかもしれません





俺がそんな嫁を貰ったら、お前だって気になるだろう





いいえ、私は兄上の選んだ方なら、たとえ狐だろうと文句は申しません


やけにきっぱりと言い切る。久成は呆気に取られ、それを見てか佐和子の次ぐ言葉はやや遠慮がちになった。



私はどんなお内儀様でも不満は申しません。
よいご縁があったら、どうぞ迷わず身を固めてくださいませ





だからと言って、狐の女房か





だって兄上は、いつも私の話をまともに取り合ってくださいませんから





言っているだろう。
こんな田舎の、落ちぶれた男のところへ、好んで嫁に来る奴などいない。
それこそ狐か鶴でもなければな


久成も嫁が欲しくないわけではなく、ただ半ば諦めているのだった。
田舎の農村で教員をやっており、稼ぎはたかが知れている。住まいは古くみすぼらしい借家。おまけに二十歳をとうに過ぎた妹が共に暮らしている。
これでもかと揃った悪条件をわざわざ呑みに来る女もいまい。



出戻りの妹に、気兼ねすることなんてございませんでしょう


佐和子の物言いは、久成の気分を害した。
とっさに咎めた。



気兼ねなどしていない。
そういう言い方をするな





でも……





お前が気に病むことでもない。
縁がないのは俺の不甲斐ないせいであって、お前のせいではないのだからな。
俺は今の暮らしでも十分だ


それで佐和子は押し黙り、しかし唇をきゅっと噛み締めてみせた。
妹のそんな顔つきは当然面白いものではなく、久成も無言になって目を逸らす。
明け方の家は奇妙に張り詰めた空気で満ちる。
血の繋がった兄妹の二人暮らし。そうでありながら、時々こうして気まずくなる。
囲炉裏の火を見つめる久成は、昨日の出来事をほんの少し、思い返していた。
山で会った狐は身体が小さく、子狐のように見えた。
何度か遠い銃声を聞いていたから、他の者に追い立てられていたのだろう。久成が一人でいたところへ飛び出してきた。こちらにはすぐに気づき、眼前で動きを止めた。



……っ!





……!


目が合った、ような気がした。
狐に表情があるのなら、きっと愕然としていたことだろう。
火縄銃を担いだ狩人の前にのこのこ出てきたことを悔やんでもいただろう。それでも、その狐が身を翻し、近くの草むらへ飛び込もうとするまで、たっぷりと時間があった。



……


火縄銃を携えた久成は、だがその狐を撃たなかった。
撃てなかった。



……


銃を構えることさえせずに、逃げ込んできた狐が再び逃げていくのを見送っていた。
愕然としていたのはむしろ久成の方だった。出くわした狐の双眸を、記憶の中に強く焼き付けていた。
それは別の、少しばかり古い記憶と重なる。



やあ、栄永先生


追い駆けてきたらしい他の村人が、木々の向こうから声を掛けてきた。



そちらに狐が行きませんでしたか。小さな身体の奴です


ためらうことなく、久成は嘘をついた。



いいえ、こちらには来ていません





そうでしたか、もう少しで仕留められたのに


まだ諦め切れぬ様子のまま踵を返した。
村人が姿を消し、ややしばらく経ってから、背後で草むらががさがさ鳴った。
立ち尽くしていた久成は振り向き、草の隙間から顔を覗かせる狐に気づく。



……


まだ逃げていなかったのか、それともわざわざ戻ってきたのか。背の高い草の間から、こちらを見て、何やら不思議そうに小首を傾げた。



……はは


久成はその時、情けない気分で少し笑った。
そして情けなさを引きずったまま、しばらく忘れられずにいた。
