新品のXb@x-one本体を知多半田義男(ちたはんだよしお)に向って振り上げながら、セーラー服姿の一人娘、ゆり子は言い放った。



もうやだ! 私、この家出ていく!


新品のXb@x-one本体を知多半田義男(ちたはんだよしお)に向って振り上げながら、セーラー服姿の一人娘、ゆり子は言い放った。



待って、さすがにそれで攻撃されるとパパン死んじゃう





パパンが死ぬのと! 失業手当で買ってきたゲームが死ぬのとどっちがいいの?





待って、すごい悩むそれ





待たないわよっ!


賃貸マンションの床にノーウェイトで叩き付けたXb@x本体に、さらに真上から打ち下ろされる正拳突き。清心流空手の美しい型。幼稚園の頃から欠かさず続けた修練の賜物だ。



ああっ!





どうでもいいじゃない、箱なんて!





どうせまたすぐ赤いランプ点いて動かなくなるわよ!





待って、えっ、そこなの





待たないわよっ!


肩を怒らせて義男を押し退け、玄関から出て行こうとするゆり子。ただ一撃の元にXb@xをブラック漬物石へと変えてしまったその拳は、固く握られたままだ。



ど、どこへ行こうって言うんだい。ゆり子


娘の剣幕にたじろぎながらも、義男はでっぷり太った身体の幅で、玄関への狭い道を何とかふさごうとする。



……ほっといてよ





寮もあって働きながらひとり暮らしできるところ、友達に教えてもらったの





そんな……だってお前、大学に行きたいって、あんなに勉強して……


仕事人間だった義男を見放し、妻が出て行ったのはもう五年も前。教師になりたいと夢見るゆり子の為に、義男はさらに働いた。
決していい暮らしをさせてやれているわけではなかったが、それでも義男の思いを汲んでくれたのだろう。高校三年生。ゆり子は道場に通う日数を減らし、勉学に励んでいた。
残業で遅く帰ってきた義男が、リビングのテーブルで参考書を枕に眠るゆり子を起こしてやった事も、何度もあった。必ず食事も用意してくれていた。真面目で懸命な一人娘に、義男の胸から感謝の気持ちが消えることはなかった。
なのに。



もういいの! だって私





ネバーランドで伝説のキャバ嬢になってセレブになるって決めたんだから!





な、なんだって!





もう源氏名だって決めてあるんだから!





パパンみたいに人生に疲れた子供たちを癒やす、母性豊かな伝説のキャバ嬢





そう、今日から私は





ウェンディよ!





ま、待ちなさい……





ぱ、ぱ、パパンそんな事……ぜ、絶対許しません!


唐突にわけのわからない事を言われ、義男はただ慌てふためく。



パパンなんて、仕事しててもリストラされても、結局ずっと引きこもってゲームばっかりじゃない!





待って、いや、それは、仕事がそういう……





待たないわよっ! 家でも外でも結局ゲームばっかりで……





いつまでもパパンがそんなんだから! お母さんだって出てって当然じゃない……っ!





ま、待ってゆり子





待たないわよっ!


激情のまま放たれるゆり子の拳を、義男の目が捕捉する。あ、まずい。これ本気のヤツだ。判定発生まで8フレーム。すかさず体が動く。首を反らし、半歩退く。
義男のたるんだ頬を、娘の拳が生んだ風圧がぶおっと揺らす。アクロバティックなモーションで、かわす直撃紙一重。
――だが!
わずかに空いた隙間に、ゆり子はそのまま踏み込み、肩で義男の体を思い切り押し退ける。どすんと尻餅をつく義男。



おふぅっ


ゆり子はほんの少しだけ、痛そうに腰をさするパパンに申し訳なさそうな顔を見せてから。
きっと唇を噛み、玄関に行儀良く並んでいたローファーを突っかけて、



パパンの……





パパンのバカ!


そう言い捨てて、非常階段を駆け下りて行った。



ゆり子……


勢いに押され、呆然とそれを見送ってしまった義男。はっと正気を取り戻し、どうすべきかを考え始めた、その時だった。
――追いかけて、あなた。
義男の頭の奥の方から、聞き覚えのある声が届いた。



その声は……!


――ゆり子を守ってちょうだい、あなた。
義男に懇願する声の主は、やがて光と共に彼の視覚に姿を現す。
そう、彼にしか見えていない妖精さん。
ティンカーベルだ。



なる美、お前……


ティンカーベルの顔は、出て行った妻によく似ていて、義男はついそう呼んでしまった。ティンカーベルはやさしく微笑み、



――私との約束でしょう、あなた。





――ゆり子を守ってやって、お願い。


それだけを言って、ふわりと消えていった。



……そうだね、なる美。そうだった


義男は壁に手をついて、重い腰をよいしょと上げる。
そうだ、思い出した。去って行く妻を引き止められず、せめて彼女の最後の願いだけは守り抜こうと、そう決めたのだった。



行かなきゃ、ネバーランドへ


義男はゆり子が言い残していった勤め先の名を、もう一度確かめるように口にしてから、娘の後を追い玄関を飛び出した。
つづく
