刀を抜こうとした忍を思い切り足の裏で蹴飛ばし、しかし左手で刀を奪うように。



――馬鹿野郎がよ


刀を抜こうとした忍を思い切り足の裏で蹴飛ばし、しかし左手で刀を奪うように。



なッ――


 壊れた襖を押しのけて顔を出した忍を一度睨み、それからゆっくりと刀を半分ほど引き抜いた。
 そこに刀としてあるべき刃は存在するものの刃紋はなく、刀身にはびっしりと幾何学的な紋様が刻み込まれ、錆なのか血なのか赤黒く染まっている。



――なるほどなァ


 これは、九尾の封印である根本だ。これを中心にして九つの尾が社として封じられているのなら、この刀こそ九尾の肉体そのものなのだろう。
 だから、これを封じるために木気を捧げる。その結果として金気に触れる。
 人としては、死ぬわけだ。



呪刀〝白面金毛(はくめんこんもう)〟――か


赤色が波打つ。まるで鼓動するかのように。



――どんでもねェ代物だな、こいつァよ


人の命でどうにか封じてきたのも頷ける。いやむしろ、よく人の命程度で封じ続けられたなと驚嘆に値するほどだ。



蓮華、さん……?





おゥ


ちりんと、髪飾りが揺れた。そして鍔鳴りも。



境内に戻るぜ。引き摺ってでも、這ってでも二ノ葉を連れて来いよ。そいつァお前ェの役目で俺がやるべきことじゃァねェ





――蓮華さん、あなたは





るせェよ。いいかよく聞けよ忍――お前ェがやろうとしてたことはな、その一時凌ぎはよ、数百年と続いたこの土地で行われていた一時凌ぎと、同じものだ


 いわゆる原初、草去がこうなった時分の頃――九尾を封じるために、五木の者は苦肉の策を取った。愛する妻と娘のために、自らを犠牲にすることで一時的に九尾を封じる方法を思いついたのだ。
 自分が死ぬまでに、別の方法を考えてくれと託し――その九年後に、代替を欲し同じことを繰り返した。
 数千年、その一時的なものは続いてきたのである。
 何故それを? 答えは単純だ、五木の家にあった古い書物などを調べた上での予想でしかない。



お前ェの馬鹿な行動は今の一発で帳消しだ。いいから来いよ、先行くぜ


おそらく多くの疑問が訪れているだろう忍を無視し、刀を肩に提げるようにして蓮華は背を向けて歩き出す。



――説明なんかしてやんねェよ。どうせすぐ理解できる


袂からオープンフェイスの懐中時計を取り出すと、二十二時五十分。我ながら良い手を打ったものだと頷いて境内に戻ると、同じく疑問を顔に浮かばせたままの瀬菜が待っていた。



お待たせ、止めてきたよ





そう……けれど





釈然としねェッてか? 気にするなよ、俺ァ今のいままで一般人で何も知らねェただの人だったからなァ。ま、後の責任は俺が負うッてことよ





――蓮華!


 背後から、ついに呼び捨てになった忍が二ノ葉を背負いながら来る。その様子に瀬菜はほっと全身から力を抜いて安堵した。
 おぼつかない足取りで近づき、熱い吐息を落としながらも瀬菜の傍に二ノ葉を寝かした忍は、それでも休もうとは思わずに振り向き、蓮華と正面から向かい合った。



蓮華、刀を渡して下さい。九尾の封が解けてしまいます!





嫌だね、断るよ。全否定だ。お前ェが死ぬのを俺に黙って見てろッてかよ。無理難題を押し付けンじゃねェよ





九尾の封が解ければ、問題は草去に留まらず一般社会にまで大きな打撃を与えることになります。私は、そうした方を守らなければなりません





――あァ


忍を救えば、九尾の封が解ければ、一般人の多くが犠牲になる。一人を助ければ千人が犠牲になる。



――だがよ、やっぱり前提が違うよな


 空想の課題ならともかく、現実はそうはっきりと二分しない。
 何故なら、その問題を一挙に解決する術を、今の蓮華は持っているのだから。
 つまり――違う方法で、九尾を封じればいい。いや、封じずとも手はある。



どうしても渡す気はないのですね


 二ノ葉を瀬菜の傍に降ろした忍は、ゆっくりと腰を落として徒手空拳の構えを見せた。
 武術家は、多くの得物の中からただ一つを好む。剣道家が竹刀なしでは戦えないのとは違い、武術家は存在そのものが武術家だ。得物がない状態での戦いなど当然だと捉えた上で、一つの得物を持つのだから。



はッ――くどいよ。あんまり聞き分けがねェと、眠らすぜ?





渡して頂きます


愚直にも正面から。その速度たるや――。



――雨の爺と比べれば、一般人より容易いッてのよ


 雨天暁を圧倒し、雨天の御大ですら一撃を中てられない蒼凰蓮華に、まさか未熟な忍が中てられるはずがない。ましてや人を殺した反動を抱いたままで。
 踏み込みからの拳を、躰を僅かに沈めるだけで回避しつつ、通過する瞬間に腕の側面を下から叩き上げ忍の体勢を崩し、一歩を踏み込んでそのまま忍を瀬菜の傍に転がした。



寝てろよ





――刀、やっぱ抜けねェのかよ


想像はしていただろう。覚悟とやらもしたに違いない。けれど蓮華は、人を己の手で殺す行為に付随するその、どうしようもない不快さを知っている。



蓮華……!





黙ってろ。譲歩してやっただろうがよ、こちとら昨日から頭にきてンだ


言って、呪刀を引き抜いた蓮華はそれを石畳に突き立てた。



けれど、ッてな。瀬菜、俺にとっちゃァ――お前が咲くところを見てみてェ、たったそれだけで理由になるんだぜ?


通信機を二つ投げ渡し、蓮華は簡単な操作をしてから携帯端末を耳に引っ掛ける。



さァッてよ


その声を、肉声と通信機から聞く。



そんじゃァま、ざっと半年ばっかり早い顔合わせと行こうじゃねェのよ


 くるりと回転した蓮華が繰り出した足刀が、其の刀を真っ二つに切断した直後に。
 ――封が、解けた。
 草去更という器そのものが極端に振動した。空気の一欠片に至るまでが、まるで産声を放ったかの如く波立って往く――そう。
 ここ、稲森神社を中心にして。
 次いでその待機を揺らしたのは咆哮だ。獣特有の、しかし声高に音としての二度目の産声を上げた獣は今、彼らの眼前に聳え立つ。
 巨大な――狐だ。しかし尾は一つしかない。
 その体毛は金色でありながらも先端は光を反射して白色に映る。なるほど山を二分割するだけの力はあるだろう――ゆうに、三十メートルも全長があるのだから。
 それをぼんやりと見上げた蓮華は忍と瀬菜に苦笑と、肩を竦める動作で振り向き――笑いながら、顔を引き締めるのでもなく、ただ。
 言う。



走れよ馬鹿共


――言った。



走れよ馬鹿共


 結界が揺らいだ瞬間を目にした三人は、雨天暁の一歩とほぼ同時に内部に踏み込んだ。そこは蒼狐市――いや四森、いや草去更、いやいや死森、名はいずれでもあっていずれでもない、忍たちがいる場所と同じ土地に辿り着いた。
 這入れたと思った直後、通信機から届く声――それにもっとも早く反応したのは暁で、それに追随するかのよう二人は背中を追うようにして走り出した。
 頭上を仰げば威圧感、黒く濁ったような陰気を含んだ重苦しい空気、その空に映るは金色白金の体毛を持つ獣、王の名こそ譲りながらも女帝の地位を確固たるものとして抱いた狐の妖魔――九尾(きゅうび)と謳われるそれが、ここにはいた。
 



ぼけッとしてンじゃねェ、さっさと来いッてのよ





してねェ。つーかどこに行きゃいいのかくれェ言え。あと誰が馬鹿だ、誰が





こんな馬鹿な話に乗っかるお前ェらだッてのよ。おゥ咲真、左手に見えるちょい大きい屋敷、そこが諍なんだよ。社が近くにあッから壊してこっち合流してくれよ





良いとも





それと暁、雨を呼べよ





んー、時間はかかんねェと踏むけど、小雨程度だぜ?





構わねェよ。それと涼、気に中てられて喰われンなよ。九尾は無視してこっちに合流してくれ





……ああ。そうさせてもらおう


通りに出た暁が選ぶ経路は直線距離。山や川などが立ちふさがろうとも、それを障害と捉えていないようで、その背中を少し複雑な表情をした涼が続いた。咲真とはそこで一端別れる。



涼、蓮華の馬鹿は気にするな。けどたぶん、忍も含めて動けねェのが何人かいるだろ。そっち任せるぜ?





承知した


 呼吸すら苦しいと涼は思う。今は移動しているから問題ないが、一度でも立ち止まればそのまま足が竦み、身動きできないと錯覚するほどに強く、九尾からは威圧を感じている。
 けれど暁は。
 その口元に、笑みさえ浮かべていた。



――どういう、ことなのですか


通信機から忍の声が割り込んだ。それは蓮華に対する問いだ。



どうッてよ……あァ、簡単に説明しとくか。おゥ、忍の馬鹿は自分を犠牲にして九尾を封じ続けることを選んだよ。んで、俺が蹴っ飛ばして止めた。九尾の封が解けたのは俺の責任よ。だからお前ら、俺に力を貸せよ





ンだァ忍、てめェ、俺よりよっぽど馬鹿だよなァ





やれやれ、暁に言われては立つ瀬もあるまい。同情したいところだが、私も一つ殴りたい程には憤りを感じている。――仕方ないと思う部分もあるので、相殺はされているか。何しろ私だとて、本来ならば祈ることしかできぬ身であったはずなのだからな


暁が手を振り、涼は別れて進む。九尾の気に当てられてか、小物の妖魔はこちらの姿を確認した途端、驚いたように逃げていく。面倒がなくても好都合だが、それは九尾がどれほどの影響力を持っているのか証明しているようなものだ。



――どうする気なのだ、蒼凰蓮華は


今の涼には、まるで解決策など浮かばないのに。



どう、して――咲真も、暁も、涼も、この場所に。蓮華、貴方は





可能性よな。こうなる可能性を考慮すりゃァ、最悪のために手を打つのは必然よ。何も考えず忍を助けたと思ったかよ? こっちは草去入りしてから得た知識で、それ以前の手を有効活用しただけのことよ。まァ騙しちゃいねェと思うが





否、嘘はないが騙してはいただろう蒼凰蓮華


忍たちではなく、涼たちに対して行ったように。



……まァ涼が言うンなら、そうなのよな。だがどう考えたッて俺が、九尾の封を解いてここの結界を解いたのよ。忍が保とうとしてたもんを俺が横から掻っ攫って壊したのよな。いいかお前ェら、こっからは俺の持ちだ。責任も結果も何もかも俺が貰ってく。忍はさして関係ねェのよ。だから、俺が言うよ


 蒼凰蓮華は。



お前ェら、俺に力を貸せ


暁が、水の属性を持つ雨天の武術家が呼んだ小雨が空から降る。九尾は未だに復活の最中、咆哮を空へ上げながらも未だに行動を起こそうとしない。



誰を助けるッて言われりゃ、この通信を聞く全員だと俺は答える。何のためにと問われれば――私情だと言う。けど俺一人じゃ何もできねェ、俺と忍だけでも無理だよ。けど俺ら六人なら、意識のない二人も含めた八人なら、できねェことなんぞそうはない。それを今から俺が証明してやるよ


あくまでも陽気に、あくまでも暢気に。



だから、今から九尾を倒す。殺すンじゃなく倒す。お前ェらならできるのよ





違うだろ


笑いながら、暁が言う。



違うだろ蓮華、言い直せよ。お前たちなら――じゃ、ねェだろ?





そうだな


続いたその言葉は本当に、心底から嬉しそうに聞こえた。



俺たちならできる、よな


さあ幕を開けよう――幕を閉じよう。
奇しくも同世代、同年代、その一人を助けるために――全員で助かるために。
ようやく、一直線に境内の裏側に出た涼は彼らを発見する。そして。



ここが俺らの初陣だ。取引もなく代償もなく、――ただ困ってる友人を助けてやるのよな


こうして、宣言は果たされた。



ん……おゥ、お前ェが都鳥涼よな





ああ、お前が蒼凰蓮華か





――小柄か。確かにこの場にそぐわぬ、一般人のように思える


あるいはこの場でなければ、雑踏の中の青色を見つけ出すことすら困難かもしれない。ある意味で蓮華は凡人に見えた。



五木忍、自身を犠牲にしたいのならば、まず己の手の中にあるものを全て捨ててからにしろ。できぬならやるな。仕方なくなど、方便にもならん





……痛み入ります





蓮華、社は破壊した。私は狐と相対しよう





ん、まあそれでいいか。涼、ぼけッとしてンじゃねェよ。結界を張れ、これ以上怪我人に陰気を押し付けるわけにもいかねェだろうがよ





ああ……





それと瀬菜、忍の手当てしてくれよ。医療箱、間違ってねェよな?





……ええ、そうね





含みがあるなァ――そう疑うなよ





疑ってはいないわ。ただどうするのか気になっているだけよ





それもすぐわかるよ。と、涼、てめェ甘いことしてンじゃねェよ。陰気だけじゃねェ、ここは戦場だぜ? 物理的、呪術的な結界も含めろよ。俺がこの場から離れられねェだろうがよ





……すまん





――主が封を解いたか


 上空から蓮華に向けて、空気を震わす声が放たれた。まるで台風の強風を真正面から受け止めたかのような振動に対し、蓮華は頭の髪飾りを揺らし音を立てながらも微動だにせず――背後に彼らを護るような位置取りで空を見上げた
 否だ、空にいるのは一匹の妖魔である。



まだ若造ではないか。しかし感謝はしても良い、妾(わたし)を復活させたのだから


声色は女性のもの。まだ尻尾は一つ――どういうことかと考える他の者を置き、蓮華は苦笑した。



おい感謝だってよ、どうする。くだらねェよなァ


通信機にだけ聞こえる声で小さくそれを呟くと、しかし、すぐに顔を引き締めて蓮華は声を上げる。



――てめェに用はねェ


静かな声だった。怒鳴るのでもなく、それこそ吼えるのでもなく、誰も居ない広場で独り言をぽつりと漏らすような静かな声は――狐の声を打ち消すほど強く、押し返すほどの堅さを持って放たれた。



我が物顔で言い放ってンじゃねェのよ、妲己(だっき)風情が





なんと――主、妾を知っているか。こうして現世へ出るは千年も久しいというに





聞こえなかったか? ならもう一度だよ。たかが一尾が偉そうなこと言ってンじゃねェよ。俺の面(ツラ)を知りもしねェ妖魔が、千年の刻を語るンじゃねェッてのよ


はらはらと、涙のような雨が空から降っている。



主の顔……だと?





雨天の百眼も、都鳥の鏡娘も知っていて、九尾が知らぬ道理はねェ。だッたら知らねェてめェは九尾じゃねェンだよ――ただの一尾だ。用はねェから失せな





く――クック、人間風情がよく吠える


 完全にこちらを侮っている九尾の視界に忍が入り込む。そこに五木の血筋を見出したのか、更に細められた金色の瞳は警戒と怒りを視線に込め――しかし。
 それよりも早く、蓮華は呟いた。



雨天流抜刀術。――始ノ章〈水走(ハシリ)〉


 
 森を抜けた暁は九尾の背後からその通信を受け取り、あろうことか走ったままで居合いを完成させた。
 水面を小石が跳ねて飛ぶように、空気を伝わって居合いの力はそのまま九尾の尾へと向かって往く――だが、それでは終わらない。終わるはずがない。
 だから走る。その衝撃波よりも速く――ただ疾く。



追ノ章〈昇水竜(ノボリ)〉


 
 次いで停止――右足を強く踏み込み急激な停止動作からの居合いは、停止における衝撃の大半を刀に乗せて放出し、抜刀の方向は地面から上空へ向けた変則の形。その衝撃は滝を昇り上がる竜のようで、その顎は尾を噛み千切らんと迫る。
 そして、停止の力を利用して暁は上空へと思い切り飛んだ――そう、飛んだのだ。



――終ノ章〈崩落(ラッカ)〉





おお!


 それは肯定の言葉。
 それは気合の言霊。
 尻尾のほぼ中央付近に向けられた空中からの抜刀、居合い。落下速度と力による強引な攻撃は、刃が当たるその一点にて――水走、昇水竜との合流を果たし三種の衝撃が合致した。
 



雨天抜刀・水ノ行第三幕〈三立牙(みつのたつき)〉――





〝山地水に曰く、此れを磐石と然り〟


結果を待つよりも早く、暁は堅い尾の表面を蹴って場所の移動を開始した。相手が巨体であればあるほど、同じ場所に留まっていれば危険は増す。
夜空に、絶叫に似た咆哮が響き渡った。



うるせェ……





聞こえてるぜ暁、暢気だよなァおい





事実だろ。つーか硬ェ。第三幕でこれとなると、おい蓮華どうする





別にどうも。とりあえず一尾は打倒できたし問題はねェよ


 次だなと蓮華が言った矢先、漁火の方角から金色の光が空に向けて放たれた。
 封がまた一つ、解けたのだ。



暢気なのはどっちだてめェ。暴でやってたら手首傷めてたぜ?





やってねェンだろうがよ





徹したからな。ッつーか的確な指示だな蓮華、初見で三幕とは意地が悪ィぜ





最大効果を求めながらも、最大威力を見せず、的確な判断が可能な技――となると、いい塩梅だろ? 耐久度と比較すりゃバランスが取れてるよ。……お陰で軽口を叩く余裕がなくなりそうよな


同じ武術家であっても、涼も咲真も雨天の技など知らないはずだ。おそらく蓮華は雨天の技を見て、あるいは受けたことがある……?



――どうせクソ爺が絡んでるンだろうけど、な





おい蓮華





ンだよ――と、次の尾は褒姒(ほうじ)か。手はまだ出さなくていい、華陽(かよう)に続くだろうよ。……そら、一ノ瀬の封が破れた。当たりだよ





褒姒はいねェだろ? 尾が出たのは華陽に繋げるためだけだ。だいたいあいつは――





暁


 短く、制止するような言葉が飛んだため、ふうと暁は足を止めて一息つく。
 褒姒は、おそらく稲森に居た誰かそのものだろうけれど、それによって動揺を生むので言うなとのことか。



残るは九つ目を除いて、六……いや同じなら七尾か。おい蓮華、六か七つ目辺りまで温存してェぞ俺は。最後はどうせ藻女(みずくめ)から玉藻(たまも)なんだろ?





おゥ、俺ァそう見てるけど――お前ェ、どこまで往けるよ





陽(オモテ)なら一通り。来年は元服だしな


揺れ動く気配に一瞥を投げ、近づいて来た槍を持つ咲真に対して軽く片手を上げて挨拶とした。お互いに動き回っているが、余裕はまだあるようだ。



そうじゃねェッて。師範から止められてるのがあるンだろうがよ





あるけど……別に失敗はしねェぜ?





そういう問題でもないと思うがな……しかし、黙って聞いていれば九尾に関してお前たちは何か知っているようだが?





あ? ンだよ咲真、お前知らねェのか? ……あれ? よォ蓮華





俺に振るなよッたく……昔話さ、あるところに狐の姉妹がいましたとさッてよ


そう、それは古く昔のお話。



気弱な妹は性格に反して力だけは強大だったのよ。そして珍しくも九つの尾を持ち合わせていたのよな――その力を我が物にしようと、狐の一匹が尾を喰いました。残りは八本です。力を奪われたと、その力で自分をまた襲いに来ると思った妹が相談すると、姉は言いました――なら、自分が二尾を喰らって強者となりお前を守ろうッてよ。残りは六本で、しかし姉の姿はどこにもなく、残り五本も五匹の狐に喰われてしまいましたとさ――


 九尾の伝承にはいくつかの名が残されているが、そのどれもが九尾自身を示すものでありながらも九尾自身ではない、という事実を知らない者は多い。ここにいる中でも蓮華と暁しか知らなかったようだ。
 蓮華の話した通り、それぞれの尾には自我がある。尾を喰ったつもりが、彼らは逆に喰われてしまい妹狐の中に取り込まれてしまったのだ。
 一尾の妲己、二尾の褒姒、三尾の華陽、四尾の煉畔(れんはん)、五尾の喰(くい)、六尾の若藻(わかも)、七尾の藻女、八尾の玉藻、そして。
 九つの尾を持つ――九(きゅう)尾(び)と成る。
 その説明が終わるか否かという状況で、暁はそれに気付いた。



まずい――蓮華!





わかってるのよな、これが。涼、借りるぜ





なにを――


九尾――否、華陽の瞳がこちらを捉え、その口を大きく開いて牙を顕に。



――


 言の葉はなく、ただ敵意と殺意のみを夜空に伝え、小雨を切り裂いて金色の呪力をそのまま口から放出した。
 一直線に狙って来たそれに、蓮華が右手を出し――そこに、術式紋様が発現した。
 中央の文字を空白として二重円閉じ、文字円をなしに更に一円で閉じ、そして最後に文字円で括った奇妙な術式紋様が涼の差し出した右手に展開する。それに重なるよう、前面に中央文字と文字円、そして一円の閉じ――二つの術式紋様は、まるで一つだったものを二つに分割したような緑色。
 刹那、いや直後、金色の光は結界に当たって屈折を引き起こしたかのように明後日の方向へと射線をずらされて飛んで行く――。
 それは。
 空気を高濃度圧縮した風を操る。それこそを鏡の役割とし、結界とする都鳥の術式。
 間違いない。



蓮華……お前は


 今の術式は蓮華が使ったけれど。
 間違いなく稼動させたのは涼自身だ。



さすがに九尾の咆哮を正面から受け止めるには強度が足りねェのよな、これが。でもま、相応の呪力を消費すりゃァ弾くくれェはどうとでもならァな。ただ連続は難しいよな?





あ、ああ……


 だからそれは蓮華の手管。いつか行うのならば、今行ってもおかしくはない――可能性を現在に引き寄せる法式を使い、涼の術式を使わせたのだ。
 借りた――のである。



ん、そうだ瀬菜、こいつを置いといてくれよ


振り向いた蓮華の双眸は碧色に輝いていて、忍はぎくりと躰を強張らせる――がしかし、どうしてか瀬菜は、あっさりと頷いて引き受けた。



もうただの鉄だと思うけど、引き抜くなよ?





そうしておくわ





――引かねェのかよ





何に?


呆れたように瀬菜は肩を落とした。



二ノ葉は最初、蓮華を青色だと言っていたわ。私もそう思っていた。けれど次に見た時は赤色だったと――今は碧色ね。どうして青色を嫌っていた私が、とも思ったけれど……





けれど?





そうね、単純なことだったわ。色なんてどうでも良かったのよ――蓮華は、ただ蓮華なのよね。だから


だから興味を持った。珍しく動いていなかった感情が、身震いをするように手を伸ばしたのだ。



どんな蓮華でも、ちゃんと見ていてあげるから、安心なさい





――


驚いたように目を丸くした蓮華は、少し照れたように微笑んですぐに九尾へと躰を向けた。



先のようにはいかねェ、尾の動きに注意しとけよ。暁は補助





おう





咲真、二尾を貫け。できるよな?





ほう――私には確認をとるか。気に入らんな、言えばいいだろう――やれと、やって見せろと


やれやれ、女の扱いに関しても経験が必要だなと蓮華は苦笑して。



――期待してるよ


そう返答した。
 咲真は地面を低い体勢で疾走し、対して暁は障害物を蹴り飛ばすように上空を移動していた。
 九尾は両足こそ動いていないものの、神社の境内全域は尾によって破壊され、綺麗な足場など蓮華たちの方にしかない。これこそが戦場だと血が沸いているのはきっと暁だけで、咲真にしてみればこのような実戦は初めてか、あっても二度目だろう。
 それでも前へ進もうとするのは、咲真が後悔しているからだ。



――祈っている、などと馬鹿を言った


 忍に向けたその一言が咲真を縛っている。やろうと思えば、どんな手段を使ってでもここへ来ることができたのは、現実が既に証明しているのにも関わらず、何も選択しなかった過去の自分に対し、後悔しているのだ。
 だから譲れない。
 汚名は返上するものだ。
 そうでなくては忍に顔向けもできない。
先の説明では尾が増えるごとに強さも増す、なればこの程度、朧月の槍の前に立ち塞がることを後悔させてやればいい。
 朧月が持つは金気――そして、相反する火気を咲真が持つ。朧月家の者は姓と名の双方に違う属性を持つことを遺伝とし、それを複合させてこそ武術家として名乗りを上げる。



――金気同士とは相性が良いではないか


 何故ならば刃は金属同士を叩き合わせて作るものであり、そこに火の触媒を持たせるものだから。
 尻尾を足場に跳ねた直後、高低差をつけてもう一尾が眼前に迫っていた。
 三度目の閃光が放たれる。
 方向は彼らではなく――咲真へ。



どうしたものかね。……この千載一遇のチャンスとやらを


逃げ場がないその空中で。



どうにかしろッての





無論だとも


 射線軸に飛び込み咲真を飛び越える暁と、空中で僅かな会話を交わし――放たれた直後に、二人はお互いの足裏を蹴って逆方向に飛んだ。暁は地面へ、そして咲真は空へ。
 武術家同士の以心伝心――そして、あるいは信頼。咲真が地面を疾走していて、空の経路を暁が選択した時点でこの展開は読んでいた。



――読んではいたが、賭けだがね。さすがは雨天の暁か


 そして朧月の槍に貫けぬものはなしと謳う。
 空に掲げた槍は既に竜を模った炎を纏い、切っ先と顎が絡み合う。
 狙うは二つの尾が重なったその一直線上の点――行く、否、往けと咲真は槍を投擲した。
 
 槍は尾に命中しながらも、そこで静止――ただ、火の竜だけが尾の中へと速度を殺さずに這入り込む。更には命中の時点で二重の術式紋様が展開し、火の竜のために通路を創ったようだった。
 大地に着地した咲真はふうと吐息し、上空から落ちてくる槍を頭上で掴み取る。
 さて、次はどうすると内心で蓮華に問いかけながら移動する。距離を取るのではなく、今度は暁の補助へ回るために。



喰、か


 今度は時間を要せず、しかも同時に二尾が出現したのを間近で見た暁は思わずそう呟いていた。
 瘴気が次第に濃くなっている。これは陰に傾く呪力が周囲に放出することで発生するものであり、妖魔の特性の一つとも言える。特に喰と呼ばれる九尾の一尾は陽の気を喰らう性質を持っているため、あまり時間をかけるわけにもいかない。



――そいつを逆に利用するッて手もあるにはあるンだが


 陰陽を併せ持つのが人である。故に武術も表と裏があり、呪術も陽と陰の二種類を習得する。暁が今も、また普段扱うのは陽ノ行で、陽の気は制御が比較的簡単なところもあり、元服を前に習得する――が、しかし、陰ノ行は難しい。均衡を保つことを念頭にしなくては陰気に飲まれ闇に落ちるし、かといって陰が全くないのでは陽に過ぎて天に昇ってしまう。
 実際、師範には止められているものの暁は陰ノ行を扱うことができる。できるが。



――今はそんなことより、だ


先に蓮華が話していた昔話を、暁は事前に聞いていた。だからこそ雨天の師範たる静と五木との間にある不文律も耳にしていたし、故に最初の攻撃を尾に向けて放った。



――本体を傷つけるわけにもいかねェ。九尾の討伐も避けたい


だが、蓮華はいつそれを知った?
最初から知っていたのか、それとも暁に攻撃をさせて尾を狙った事実を確認してから、それを察知したのか。



――まだある


 九尾と云えば伝承に残るほどの妖魔、間違いなく第一位だろう。現状では全力を出し切っていないとはいえ、それでも第二位とは比較にもならぬほど強い存在だ――が、しかし。
 その尾の全てを、たった一撃で無力化している。これは実際にはありえないことだ。尾の表皮には針を無数に重ねた鋭さと硬さを備えているし、いくら巨体で動きが鈍くとも掠りでもしたら大事だ。そんなものにたった一撃で、果たして打倒することが可能だろうか。



――蓮華が何か、してンだろうな


 加えて、九尾の意識を散らしているのか、遠距離からの攻撃はともかくも移動して直接攻撃を蓮華たちのいる場所に向かって行っていない。踏み潰すなり噛み付くなりしたのならば、結界など壊れてしまうだろうに。
 そして同時に蓮華はこちらを試している。頼むとも、やれとも口にはしているが、対応の仕方や反応を見て、どの程度の実力を保持しているか見極めようと、こちらに細かい指示を飛ばしてきていない。
 今までの攻撃は徹、貫ときたから暴か包を放つべきだろう。耐性ができると考えるのも妥当であるし、あまり同質の攻撃を繰り返すのは得策ではない。ただし今度も二尾を同時に中てるとなると、――速度が必要だ。



――咲真は戻ってねェ、そこいらにいるか


九尾の意識を自分へと向けるのは困難だが、いっそのこと正面に出てしまえとばかりに暁は移動している。周囲の木木は既に切り倒され、大地には修繕が難しい傷跡を残した移動しにくい場所を飛ぶように、しかし刀から手を離すことはなく。



――ッたく、わからねェ野郎だ


 だが、悪い気はしなかった。
 深く、低く、躰を捻りながらも上半身を折り、しかし抜刀の構えにて暁は迎え撃つ。あくまでも迅速に、かつ的確に、蓮華の意図を読み取り、そして己の行動から蓮華の意図を把握する。
 心(シン)と、鍔鳴りの澄んだ音色が一つ――半呼吸ほど置いて軌跡が四つ空に示されて斬戟の残滓を周囲に見せ付ける。
 
 
雨天流抜刀術、水ノ行第六幕終ノ章――その技を、〈水仙四薩(すいせんしさつ)〉と云う。神速の居合いを四度、そのどれもに暴、徹、貫、包を含めた攻撃を自在に含める。今回は全て包だが、戦闘においてこの鍔鳴りしか聞こえない程の神速の中、違う性質の攻撃を行われたら防御などできないであろう。



――来る


 手ごたえは、あくまでも中った程度。それが致命傷になりうるかなど分かりもしないのに、しかしそれが致命傷であることを暁は知る。だから次の一尾が発生することも読めた。
 尾は暁の眼前に、暁を貫くような出現の形を取った。故に選択は回避、方向は空。
 その時、何かがかちりと嵌った。



――ああ、そうか、致命傷になる可能性もあるッてか?


結論に至った暁の口元には笑み。きっとそれは、



咲真、暁、――斬れ


その指示を飛ばした蓮華の口元に浮かんでいるものと同じ性質の笑みで。



槍は貫くものなのだがね


通信機からではない肉声に、暁は空中で横回転を見せて居合いを完成させる。
――暴、だ。
