朝食を諦めて、外に出る。
朝食を諦めて、外に出る。
目の前に、見慣れた四駆が止まっていた。



マリア


響く声も、いつもの声。



ソウ


躊躇わず、マリアは車に乗り込んだ。



ありがとう。助かったわ





いえいえ、どういたしまして


マリアの言葉に、ソウが笑う。
ソウは、マリアの幼馴染み。マリアと同じ大学の医学部四年生で、一応『恋人』ということになっている。ユキがお世話になっていた病院の御曹司で、年が近いからマリアもユキもすぐに仲良くなった。だから今更『恋人』とか『付き合っている』とか言われても、実感はゼロだ。



朝御飯食べてないのか?
僕の昼御飯だけど、鞄の中にサンドイッチが入ってるから食べて良いよ


グウと鳴ったマリアのお腹に、少しだけ口の端を上げながら後ろの座席の鞄を指し示すソウ。ソウの、気が利くところは好きだ。いつも、そう思う。その、優しさも。だが、遠慮すると困った顔をするところは、少し、苦手だ。だからマリアは遠慮せず、身を捻ってソウの鞄を取ると中に入っていたサンドイッチを取り出し、口に含んだ。



あ、そだ


思い出して、自分の鞄を開く。



これ、父が出張土産に買って来た飴
勉強会の時にでも皆に分けて


取り出したビニール袋を、サンドイッチの代わりにソウの鞄に納めた。



今日も、あるんでしょ? 勉強会


医学部は、どの学部よりも勉強が大変らしい。サンドイッチを頬張りながらのマリアの言葉に、ソウはこくりと頷いた。そして。



今日は、忙しいの?


今度はソウが、尋ねてくる。



卒論発表会だから


ソウが何が言いたいかは、大体分かっている。だからマリアは、なるべく素っ気なく、答えた。



明日は?





無理、追いコン





今日卒論発表会なのに?





今日と明日、やるの
院生の発表も同時にやるから





そうか


良い映画があるから、一緒に見に行こうと思ったのに。呟きが、ソウの口から漏れる。



明日は金曜だから、皆遊びに行くんだけどな
土日も勉強会だし


医学部は、マリアが思っている以上に大変そうだ。



しょうがない
また別の機会にしよう


だが、ソウの言葉にほっとしたのも、確かだ。映画は、好きではない。ユキの本当の病状を知っていて、マリアに隠した優しさも。
サンドイッチを食べ終わったので、再びソウの鞄を後ろの座席に戻す。ソウの車には飾りも、車内に余計な荷物もない。あるのは、鞄と、可愛い柄のフリース毛布。



まだ、毛布置いてるんだ


この毛布は、ユキと三人で大学に通っていた頃の、名残。



大学へ行きたい


ユキがそう言い出したのは、何時のことだっただろうか。学力的には全く問題はなかったが、体力がないという理由でマリアは初め反対した。だが、ユキの決意が固いことを見て、考えを変える。ユキが大学へ行きたいのなら、自分はできるだけユキをサポートしよう。だからマリアは、自分と同じ大学へ行くようユキに勧め、大学への行き帰りは同じくユキのことを心配するソウの車を利用した。だが、……それも今は昔。



マリア、着いたよ


ソウの声に、はっと我に帰る。
マリアは何とか笑顔を作ると、ソウの車から、降りた。
卒論発表会一日目は、滞りなく終わった。



はあ~、終わった終わった


疲れた声を出しつつ、発表に使ったパソコンの片付けをする友人の横で、マリアはパソコンや様々な機器の電源コードをまとめていた。
発表会は明日もあるのだから、今日の片付けは簡単で良い。だが、電源コードやプロジェクタとパソコンを繋ぐコードが無くなったら、明日の発表会に支障が出ることは自明の理。だからマリアは、殊更注意深くコード類をまとめ、目立つように教卓の上に置いた。



はあ~


マリアの横で、友人が再び溜め息をつく。



私たちも、二年後にはあんな発表をしないといけないなんて、今から気が重いわぁ





そうね


今日この場所であった発表を、思い返す。どの発表も、そして発表者も、多少の緊張の色は有ったが輝いて見えた。特に留学経験についての発表は、マリアには特に格好良く、映った。自分も、二年後には先輩達のように堂々とこの場所に立つことができるだろうか? 不安が、心を支配する。
頭が良い、サバサバしている、度胸がある。これが、マリアが聞く他人からの評価。だが、成績はソウやユキに勝てなかったし、サバサバ、や、さっぱり、という表現は自分ではなく他人を評価しているように聞こえてしまう。自信が無い、強がりの、ただのちっぽけな女の子。それが、マリア自身の自己評価。



まあ、マリアは大丈夫よね


だが、やはり、友人のマリアに対する評価はマリア自身の評価とは違うようだ。



美人だし、頭良いし


いやいや美人と発表内容とは関係無いでしょう。実際問題、自分は『美人』ではないし。友人にそう言おうと思った会話は、しかし途中で途切れた。



高月さん


ハイヒールの音が、背後から響く。振り返るまでもなく、香水の匂いで、マリアには誰が来たか分かった。この上品な香りは、四年生であるハルカ先輩のものだ。



先生が、呼んでいるわよ


振り向くと、一目でブランドものだと分かる濃紺のスーツを着こなした女らしい雰囲気の先輩が、マリアに向かって眉を顰めているのが、見えた。



多分、留学のことね


何故、きつい表情を? マリアの問いは、しかしすぐに答えが見つかった。



本当に、勿体無い
去年の秋から留学すれば良かったのに


ハルカ先輩の言葉に、下を向く。
長期留学は、マリアの希望。二年生のうちに留学すれば、就職活動に響かない。だが、去年の秋といえば、丁度、ユキの体調が思わしくなくなった頃。今留学したら、二度と、ユキに会えなくなるかもしれない。ユキの傍に、居たい。そう思ったから、マリアは留学の話を断った。



全く、勿体無いわよね


心に突き刺さる言葉を残して、ハルカ先輩が去って行く。その凛とした背中を、マリアは悔しさと共に見送った。
