九月の末。夏休みも、あと僅か。
九月の末。夏休みも、あと僅か。
その日セツナは、大学のアマギ教授の研究室へと足を運んだ。
大学の規則で、成績表は学年主任から貰うことになっている。そのついでに面接をして、学生の問題点を知ろうというハラなのかもしれないが、あのアマギ教授の所に行くというだけで気が重くなる。セツナは仏頂面で、アマギ教授の部屋のドアを叩いた。



おお、井川か
やっと来たな


既に殆どの学生が成績表を受け取っているらしい。殆ど平らになった書類の束の中から、アマギ教授は無造作に一枚の紙を引っ張り出すと、突きつける様にセツナの前へ差し出した。



ほら、おまえにしてはまあまあの成績だな


この野郎。口の端まで出掛かった罵声を、何とか飲み込む。ここでこいつとやり合っても、自分の品位が下がるだけだ。
それよりも。



あの


セツナに成績表を渡してすぐパソコンに向かった教授の背に向かって、なるべく下手に、声を出す。



高月の分も、貰えますか


九月の中旬に、ユキからメールが来た。それによると、ユキはまた検査のために入院しなければならないらしい。でも十月からの学期には大学に出てこれる。メールにはそう、書いてあった。
見舞いのついでに成績表を届ければ、きっと喜ぶだろう。ついでに新しく出来た大学向かいの定食屋のチラシも持って行こう。そう考えたセツナの心は、しかしすぐに打ち砕かれた。



高月? 高月正幸か?


振り返ったアマギ教授の、不審げな瞳の色に感じた嫌な予感は、すぐに確信に変わる。



休学願が出てるから、成績表は実家に送ったぞ





えっ?


それでも、教授の言葉に、セツナはしばし絶句した。
そんなことは、誰からも聞いてない。



何でも、検査の結果が思わしくないから、半年程入院する……って、おい、井川!


次の瞬間。セツナの身体は、アマギ教授の部屋から勢いよく飛び出していた。
アマギ教授は皮肉屋だが、嘘は言わない。と、すると、あの携帯メールは、一体。……まさか。走りながら回るセツナの思考が、ある結論を導き出す。
超人的な早さで、セツナは車に飛び乗り、車を発進させた。
その、行き先は。
ソウイチロウの実家である早木医院のロビーでセツナを待っていたのは、マリアの小柄な身体だった。



あら、やっと来たの?
アマギ教授からの連絡通りね


ピンク色の携帯電話を弄びながら発せられる言葉に、罵声が喉まで出掛かる。こいつ、幼馴染みだけでなく、教授まで手玉に取っているのか。
だが。ここは、病院だ。その常識が、辛うじてセツナを押し止めた。



ユキは三階の角部屋よ


そんなセツナの心を知ってか知らずか、怒りを誘う調子そのままに、マリアがセツナの背後を指差す。



車停め直してね。玄関前は駐車禁止よ


セツナはマリアをきつく睨んでから、車を止め直すためにマリアに背を向けた。
マリアが言っていたユキの病室は、医院の中でも奥まった場所にあった。
その、小さいながらも清潔感漂う個室に、大柄な身体を静かに滑り込ませると、すぐにユキの身体が見えた。



……


眠っているユキを起こさない様に、そっとベッドに近づく。点滴に繋がれたユキの身体は、八月に一緒に花火を見たときよりも格段に小さくなっていた。



……そんな


眠っているユキの、痩けた頬に、気持ちが沈む。やはり、ソウイチロウの言っていたことは、本当だったのだ。セツナは思わず手を伸ばし、薄い布団の外に出ていたユキの細い手に触れた。
冷たい感覚が、ソウイチロウの言葉を裏付ける。
と。



セツナ?


俯くセツナの耳に、か細い声が響く。
起こして、しまったか。セツナはなるべく普通の顔を作ってから、ゆっくりと顔を上げた。



休学、するのか?


それだけ、訊ねる。
セツナの言葉に、ユキは微かに首を振った。



うん
マリアもソウイチロウもその方が良いって


悲しげな瞳で、ユキはセツナを見、そしてすまなそうに言った。



ごめん、連絡できなくて
マリアに携帯取られて……


それだけ呟いてから、再び眠りにつくユキ。
しかし、そのユキの言葉は、辛うじて押さえていたセツナの怒りを爆発させるに十分だった。



マリア!


病室を離れ、階段を下りた先のロビーで、再びマリアを見つける。今度は、場所が何処であるか顧みる余裕は、セツナにはなかった。



マリア!


振り返ったマリアの胸倉を、掴む。



あなたは、ユキの友達として相応しくない!


顔を顰めたマリアの口から出た言葉は、それでも毅然としていた。



第一、あなたにユキの何が分かってるっていうの!





それとこれとは違うだろっ!


高慢なマリアの口調に、思わず怒鳴る。確かに、セツナがユキと出会ってまだ半年しか経っていない。従姉であるマリアと比べれば、ユキについて知らないことも多いかもしれない。だが。友情の深さは、付き合いの長さで測れる代物ではない。それに。マリアは、ユキの病状が深刻なのを知っていて、友人であるセツナに知らせなかった。それだけは、許せない。



止めないか


不意に、セツナとマリアの間に背の高い影が割って入る。



ここは病院だぞ


ソウイチロウの声が、セツナを冷静にさせた。



ほら、マリアも
……友達にユキのことを知らせないのは、マリアが悪い


泣きそうな顔でソウイチロウに抱きついたマリアを、冷めた気持ちで見詰める。
この女は、自分のことしか考えられないのだ。
セツナをきっと睨みつけてから、ソウイチロウと共に病院の奥へと消えて行くマリアを、セツナは半ば諦めの気持ちで見送った。
ユキを見舞う為、セツナは毎日の様に早木医院を訪れた。
大抵は、マリアが授業に出ている午前中を見計らって、普段より更に真面目に出て取った授業ノートのコピーと、ユキが元気になってから一緒に行きたい食べ物屋の広告を持って行く。



ありがとう、セツナ





別に良いさ。これくらい


儚い声でお礼を言われると、気恥ずかしさと同時に切なさが胸に迫ってくる。
ユキは、本当に良い奴だ。セツナの乏しい語彙ではそれだけしか言えないが、とにかく、お礼を言われて嬉しいことは確かだ。
点滴の所為かユキがすぐに眠ってしまうので、話せる時間は短い。しかし、案外元気そうに見えるのは、セツナの気のせいでなければ良いのだが。



……これなら


病院を出るときはいつも、あることを考えて気持ちを落ち着かせる。これなら、春に一緒に叔父の桜を見に行くことが、可能かもしれない。
だが。
