静寂を破ったのは、音耶だった。
静寂を破ったのは、音耶だった。



悪いが、この程度は“危険”じゃない


茂浦の顔をじっと見たまま、刃に怯むことなく前進すると、そんな音耶に怯んだ茂浦は刃先を音耶に向けたが、彼は歩みを止めなかった。



お、おい駿河! 向こうは凶器を持ってるんだぞ!





ええ、見ればわかります。だから何です? こいつは――





ただの、怖がりだ


すっと手を伸ばし、茂浦の腕を掴んだ音耶。驚くことに、茂浦は暴れることなく、ただ小さく怯えた声を漏らしただけだった。その様子に、音耶は呆れからか溜息を洩らした。



この程度ですよ。殺されるのを待った女しか殺してないんだから、抵抗する可能性のある男なんて切りつける度胸は無い。そうでしょう?





お、お前、何なんだよ……普通もっと怖がるだろっ! な、何でそんなにまるで当たり前の様に……





当たり前だからに決まってるじゃないですか、私は警察ですよ


そんなはっきり言い切れるものなのだろうか。少なくとも俺は言えないな、と埴谷は心の中でぼそっと呟く。警察とて毎度毎度危険な目に合うわけではない。基本的にはドラマのようなことなどほとんどなく、地道に証拠を見つけて最後はあっけなく終わることなんてざらだ。だから、こんなのはむしろ異例だ。



埴谷警部、ちょっと


今朝、検死結果を埴谷に手渡した時とさほど変わらぬ態度で茂浦から刃物を奪い取った音耶はそれを埴谷に差し出す。やはりこの男も兄と同じくどこかのネジがいかれているのだろう、と考えながらも、埴谷は取り出したハンカチでナイフを包んだ。



さて、とりあえずは銃刀法違反で引っ張りますか。ねぇ、埴谷警部


"何時もの様に"爽やかに笑む音耶に、埴谷が寒気を憶えたのは言わずもがなだろう。



それで? やっぱり俺が正解だったわけ?


茂浦を逮捕した後、タイミングを見計らったかのようにやってきた恵司が要求したのは捜査協力の見返りだった。そして、その見返りとして要求したのがファミレスでの食事だったのだ。音耶は埴谷の代わりに仕事をしていたが、その申し訳なさと刑事と言う面倒な相手と二人きりというので、埴谷は早く帰って恋人と団らんしたい気持ちを抑えていた。彼女――椎にはメールで連絡済ではあったが、機嫌を悪くしてしまったらしく、電話をしても何も喋ってくれない、と落ち込む埴谷。そんな埴谷に、恵司はそっとアドバイスをする。



彼女の好きな物でも帰りに買ってってやんな。椎さんはミルクレープが好きなんだっけ? 生きてる女なんて大概甘いものがありゃ機嫌を直すさ





お前なぁ、椎を何だと思って……





椎さんは椎さんだろ。だが、今までだってそうだったんじゃないのか? こんな恋人を顧みない男とこれだけ一緒に居るなんざ、椎さんは相当な物好きじゃねぇの





……お前、音耶にどこまで聞いた





だから、全部





……


黙り込んだ埴谷をよそに、恵司は目の前に置かれたオレンジジュースをストローで一気に飲み干す。グラスが空になっても、氷が解けた中の水をただ啜っていた。その様子に流石におかしいと感じた埴谷は、どうした、と軽く尋ねる。



いや、ちょっと、思うところがあってな





お前でも考え事をするのか?





まぁな。ていうか、俺の毎日は考え事に溢れてるぞ? 言うか内容?





いや、リョナは好きじゃない





へぇ、そんな言葉も分かるのか





難儀だが、色々と要らない知識がつくんだよ生きてるとな





……生きてりゃ、な


しまった、と埴谷は恵司の顔を見る。彼も人間だ、時折彼の死んだ恋人、空の事を思い出すような表情をしていることがある。特に、事件解決後はいつもそうだ。こうやってぼーっとしてはいつもやらないタイプの妙な行動を取る。それをわかっていてこんな話になったのは流石に酷か。
埴谷の心配をよそに、恵司はすっと席を立つと無言で歩き始める。埴谷は掛ける言葉を見つけられず、ただその背を見送った。



別に、俺だって分かってんだよ


すっかり暗くなった空の下で、誰に言うでもなく、恵司は一人呟いた。



全部、分かってんだよ。全部……


俯いて、そっと零した言葉の行先は、誰も知らない。
――第一話 了
